2015年2月8日日曜日

古道のベース

フェイスブックで案内されていたイベントに参加しました。

歴史シンポジウム古代甲斐と官道 - 東海道「甲斐路」をめぐって

正直、歴史に強いかと言えば < 弱いです!良い機会だと思い、シンポジウムでお聞きした専門家の方々の話をベースに、自分自身が忘れないよう書きとめようと思います。「古道」という言葉に惹かれますが、単に今はあまり使われなくなった古い道、という程度の感覚ではありますが、今回のお話は日本の歴史に登場する立派な古道のお話です。会場:大野山 福光園寺(笛吹市御坂町)

御坂山地を越える古道として『中道往還』、『若彦路』、『鎌倉往還』、の三つが登場します。

案内チラシ

まずは「古代」という言葉からです。
日本の歴史と言うと何時代?年号はいつ?西暦に直すと?っという感じにすぐになりがちですが、歴史って生き物なんですね。まるで地図読みと似ているということが今回よくわかりました。地図読みと似ているという意味は、地図読みでは三角点とか山頂とか明確に確認できるところ以外では、自分の判断(現在地に関して)が絶対だと思ってはいけない。どこかに間違っているかもな、という感覚でいてほしいとお伝えしています。歴史も同じで、具体的な出来事がはっきりしているというのはいわば三角点。古い出来事になればなるほど仮説となります。歴史的発見がなされれば、それまでの説が一気に覆ったりします。歴史は生き物です。

どうも日本史の時代区分は明確な基準がないのです。000年から000年までが00時代というのが変化します。「イイクニ1192作ろう鎌倉幕府」だったのが、今は1185年ということになっています。鎌倉幕府の成立年が6個、説があって、どれが有力というところが時代とともに変わったということです。

古い時代からイメージできるのは、縄文時代→弥生時代→古墳時代→飛鳥時代→奈良時代→平安時代→鎌倉時代→・・・・・飛鳥以降は時の政権があった場所です。江戸時代以降は年号で、明治→大正→昭和→平成と、時の天皇の皇位継承時の変化です。その年号の始まりは「大化の改新645年」の大化、孝徳天皇です。皇紀というのもあります・・・政治史、美術史、経済史・・・物事は一元的に判断出来ないので、こんな風にいろいろ絡めるとますます曖昧になってしまします。

[日本の歴史における時代区分には様々なものがあり、定説と呼べるものはない。一応のところ、(原始・)古代・中世・近世・近代(・現代)とする時代区分法が歴史研究では広く受け入れられている。この場合でも、各時代の画期(期間)をいつに置くかは論者によって大きく異なる。古代の始期については古代国家の形成時期をめぐって見解が分かれており、3世紀説、5世紀説、7世紀説があり、研究者の間で七五三論争と呼ばれている。 wiki ]

古代って200年間から1000年間くらいということになるでしょうか。中世が、11世紀から12世紀に掛けて始まったとされているからです。古墳時代から平安時代にかけてということになります。


御坂山地を越える古道として『中道往還』、『若彦路』、『御坂路、鎌倉往還』、それぞれの古道に行く前に、基本的なことを書いておきます。下の資料がとてもわかりやすいです。7世紀から8世紀にかけて建設された「七道駅路」の地図です。情報と物流の大動脈としての「官道」の建設は、奈良時代の前、天武12年(683年)に本格的に始まったという説明でした。この官道の建設が中央集権、国家が成立していく過程という印象を受けました。
官道は直線的に作られていて、道路の両側には側溝も作られ、サイズは三つ、 ・大 - 大路 - 幅12m ・中-中路-幅9m · 小-小路-幅6m。版築工法(板と板の間に土や砂利や粘土を入れ突き固めて築く建築法)といわれる硬化面も見られるということで、最新の調査で河口湖の遺跡でも見つかったということでした。

これも古代の官道のキーワードです。古代だけじゃなく現代でもです。なんたって駅伝のルーツです!官道は別名、駅路とも言われていたようで、建設のルールとして、30里(約16km、古代の距離は一里の単位が違っていた。後世の約4里に該当。)毎に、中央政府直轄の交通施設である「駅」を設けるということがありました。
メインは7本、東海道、東山道、北陸道、南海道、山陽道、山陰道、西海道。なんだか今の交通網そのまんまって感じです!甲斐の国はメインの7本には隣接していません。官道は物流や情報網という意味合いだけではなく、感覚としては広域行政ブロックという狙いがあったので、60数個の国をカバーしなくてはなりませんでした。甲斐の国から近い所のは東海道か東山道ということになりますが、やはり条件がいいのは東海道。そこと繋がることになります。古代から繋がっているのですから、甲斐の国にとって御坂山地を越える古道は大動脈だったわけです。16キロ毎に整備されていた「駅」、馬も配備されていたようです。中央からも、地方の国からもお互い知らせなければならない大事なことは駅を伝わって早馬で駆けて使者が行き来をしていたのでしょう。
つまりそれが駅伝!箱根駅伝のルーツです!

広域行政ブロックという意味合いからすると、、はじめ相模国に属していた今の郡内地方は、この官道が整備されるタイミングで甲斐に編入されたということでした。国中地方に住んでいる僕なんかにしてみれば、地理的要因でどこか遠い場所です。実際都留や吉田の方たちの感覚はどうなんでしょう?つまり、メインの東海道から御坂路が派生した理由は、中央集権。その当時甲斐の国は三つの行政区分、山梨郡、八代郡、巨麻郡、。官道の管理は半分地方の役割だったので、そのまんまにしておくと相模国が担当となり、ベースになる交通網で、甲斐と相模が・・・そんなことになるとややこしくなるので、都留、吉田地域は甲斐に編入されたということでした。そいうわけで甲斐の国の行政区分(当時)は四つになったのでした。ちなみにその頃は「郡」という単位ではなく「評」という単位で表現していたそうです。表現する単位が違うということでも、歴史ってややこしいと思います。それが歴史か!


山梨から県外に出る古道は、御坂山地を越える、『中道往還』、『若彦路』、『御坂路、鎌倉往還』以外に、河内路、逸見路、棒道、佐久往還、穂坂路、秩父往還、青梅街道(各呼称は時代で変化しますが・・・)ということなんですが、御坂越えの各ルートが古来よりいかに歴史上重要であったかということがお分かりいただけたと思います。

ではいよいよ、御坂山地を越える各古道のお話です。年代順での使用頻度は、中道往還→若彦路→鎌倉往還、というようです。
「中道往還」が始め使われていた理由は、日本武尊が登場します。4世紀のこと。当時国を制圧しようとしたのですが、足柄坂(今の箱根周辺)で相模の勢力に抵抗されます。そこで相手勢力をけん制する意味でも、一度甲斐に入ります。そこで甲斐に古墳文化が伝わり、今、考古博物館のある曽根丘陵地帯の銚子塚古墳を中心に古墳群が出来ていったという結果。中道往還は古墳文化の来た道ということ。おまけは、武田信玄が亡くなり、江戸幕府が出来る前に、徳川家康が甲斐の国に入ったルートも中道往還です。御坂越えの3本のルートの中でも、一番使われたのが中道往還のようです。今でも山梨の名産として有名な「煮貝」が一番多く運ばれたのもこの中道往還ということだそうです。

「若彦路」は、駿州に甲斐源氏が出兵する記録がいくつかあります。盆地の古墳の成立推移が、銚子塚古墳から年代を経るに従い東に移動します。そのことと山越えのルートが東に推移することは連動しているようです。若彦路の若彦はヤマトタケルの子供である稚武彦王(ワカタケヒコ)に由来する、という記述は「甲斐国誌」です。

さて、今の御坂峠の旧道の「鎌倉往還」です。ルートとしてはここが一番濃くて太いです。ここまでいろんな時代を推移してきました。このルートは飛鳥時代→奈良時代→平安時代→鎌倉時代と行けば一番新しいのですが、考古学的に現物で立証されている唯一のルートです。発掘調査によって、「鯉ノ水遺跡」で、古代の官道が出土しました。これは歴史を確定する大きな出来事のようです。今回のシンポでも最後の発表者の富士河口湖町教育委員会、杉本悠樹さんの発掘リポートがありました。官道の現物が出たんですから!ここも歴史っぽい話ですが、三本の山越えの道、同時進行で使われていたのでしょう。ただ時代によってメインルートが変化していた。それは時代の推移とともに東に変わっていったということのようです。御坂峠に登ると、石畳が残っています。鎌倉時代の石畳です。なんてロマンがある話でしょうか!




大野山福光園寺、山国の甲斐の国から外に行くルートはいくつもありました。その中でも重要度が高いのは御坂山地を越える、中道往還、若彦路、鎌倉往還の御坂峠です。



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