2020年2月29日土曜日

山頂渉猟を読んで

日本山岳会会員 南川金一さんの「山頂渉猟」を読みました。2003年11月白山書房刊の本なのでだいぶ前のものです。やぶ山指向の登山者の間ではとても有名な本で、自分は南川教の信者だと主張する人もいたりします。

「全てを排除した究極のピークハントの記録集」  ・  僕の感想です。

山登りは所詮個人の趣味なので、山をどう捉えるかというのは全て違っていいと思います。これから読もうという方にアドバイスするとしたら、ぜひパソコンで国土地理院のサイトを開いて、本文と照らし合わせて読んでみてください。南川さんの文章を地図で追っかけながら読むと、そのまんま地図読みの勉強になるのでお勧めの読み方です。


山頂渉猟さんちょうしょうりょう です。
渉猟しょうりょう という言葉にあまり馴染みがありません。調べると・広くあちこち歩きまわって、さがし求めること。「山野を渉猟する」・調査・研究などのために、たくさんの書物や文書を読みあさること。「内外の文献を渉猟する」 だそうです。

標高2000m以上の山が642座だそうです。そのすべてをトレースした南川さん。登山道を歩いて行けば山頂に着くような山は登場しない本書です。山名が地形図に書かれている山に山頂から逆算して、そのピークに立つためにはどうしよう?から始まって地形図見ながら考えます。そんな内容で162座を紹介している本です。山頂渉猟は2000mという標高で切っているのでわかりやすいと言えばそうなんですが、全ての山のピークに立つためにという内容の計画の実践です。眺めがいいとか充実した山行(その言葉自体が個人差ですが)をするためにテントを背負って周回ルートにするとかというのはすべて排除しています。目的の山の麓にアプローチして(宿がなければテント泊)、翌日日帰りで山頂に立つというスタイルで一貫しています。

とても南川さんには及びませんが、僕もガイド活動の中で山頂渉猟に登場する山が複数あったので書いてみます。まずは南川さんの行動に驚いた南アルプスの大唐松山


本文中に登場する標高点2346mから見た大唐松山2561m

文中には大唐松山に都合4回トライしたと書いてあります。1回目は計画が甘く時間切れ。2回目は目印の赤布が途中でなくなったので撤退(山頂に行ったら同じコースを下るというスタイルなので、登りながら赤い布切れを目印として木の枝に結んで帰りに回収する)。
地図を見ていただきたいのですが、大唐松山の山頂にはほぼ並んでふたつの標高が書かれています。一つは三角点の2555.1m、その西に2561m標高点。


3回目のトライで三角点の2555.1mに行っています。その後地形図の改定があって今の表記になりました。・・・三角点から西に100ⅿ位しか離れていない2561ⅿ標高点が登場してしまったので、わずか100ⅿの先のある意味新たに登場してしまった山頂に登る4回目ってことなのです。いずれも早川町奈良田の宿からの日帰りピストンです。僕の山行は早朝韮崎を出て奈良田に移動。雨池山北の1934m標高点周辺にテント泊。翌日山頂ピストンで奈良田に下ったという内容でした。

次は剱岳北方稜線の池平山です。
南川さんは池の平小屋にテントを張って、まず小窓ノ王を登って池平山南峰に稜線沿いで行きそのまま北峰に登っています。南峰に戻って池の平小屋に下った記録です。


僕らは2017年に悪天候で南峰どまり。その年の秋に地図を見ていたら自分が行きたくなって馬場島から大窓に登ったという山行を経て2018年に北峰に登りました。


次は小日影山2505.8m は荒川前岳と三伏峠を結ぶ主稜線の大日影山から西に延びる尾根からアプローチするのですが、行ってみたら予想外の岩壁の登場、無理はしないで撤退しています。地図を見ながらの再チャレンジは小渋川からのアプローチで見事に山頂をゲットしています。その流れが僕の場合と全く一緒というのに驚きました。僕らも雨の中大日影山に行って撤退、ルートを変えて小渋川から登りました。ただ南川さんと違うのは、ほぼ同じ尾根を登ったんですが、2128m標高点に泊まっての山行でした。


続いてやはり南アルプスに黒檜山(くろべいやま)2540.8m
一番手前の尾根の右端の山です。

黒檜はヒノキの仲間のクロベのようですが山頂周辺はシラビソの森、クロベは見当たりませんでした。僕らは野呂川両俣から三峰岳を越えて熊ノ平に入り西に延びる尾根をピストンしましたが、南川さんは三峰川の林道からピストンしています。



この写真は深南部の黒法師岳です。丸盆岳南直下のカモシカ平からの眺めです。山頂渉猟に黒法師岳は登場しませんが、周辺の不動岳や丸盆岳は登場します。南川さんはの移動の基本は公共交通機関。不動岳の時は山仲間の車で戸中川ゲートから入りふもとでテント泊、丸盆岳は寸又峡から林道を歩き麓でテント泊、どちらも日帰りピストンでテントを回収して下山という流れです。


そのスタイルは徹底して最後は日帰りなんです。そういった山行形態も珍しいと思います。究極のピークハントと思える内容。写真は深南部不動岳の最後の登り。


写真は東河内の小笹平です。奥に大無間山が見えています。
南川さんは今のような登山の楽しみが始まって100年以上過ぎ、100年前の探検的な要素は存在するかと問います。決まった登山道以外で、地形図見ながらオリジナルの登山の実践は今でも出来ると問題提議しているような本文です。そのことを日本の山の再発見と表現しています。明治の終わりの探検の時代を想像して、同じ感覚で山と向き合えるエリアまだまだたくさんあるという事だと思います。すごく共感しました。



2020年2月16日日曜日

三国山

山梨に住んでいるんでそこそこ高い山は周りにありますが、なんといっても富士山は特別です。御坂峠を過ぎるとその特別な存在の富士山が、ドライブしていても目に飛び込んできます。でっかい富士山!


山梨と静岡、甲斐と駿河を分ける山中湖の稜線は三国山稜と呼ばれます。富士山東側から国道138号線篭坂峠を通過して、丘陵ともいえるなだらかな尾根が三国山の先から丹沢山地へと続いていきます。三国は甲斐、駿河、相模の國。下山口に車を停めて山中湖湖畔の道をしばらく歩きました。雪まつりの看板が悲しいくらい雪がありませんでした。


河口湖から御殿場方面に1時間に一本くらいのバスの便を利用しました。


古代には甲斐の玄関口だった篭坂峠。古代官道東海道甲斐路は、のちに鎌倉街道とも呼べれます。


国境稜線に乗っかるべく沢筋の道を選びました。


チェーンアイゼンを用意していきましたが使うほどではありませんでした。


三国山とは反対の立山に寄ったのは、展望台という場所に惹かれてのことでした。カエデの樹が多い展望のない山頂です。展望台と呼ばれている場所に向かいました。


立山は「たちやま」で、たてやまではありません。標識にあった太刀山は当て字でしょう。尾根が少し広がったところの四等三角点の点名は「立山たちやま」です。見る場所によって違う名前で呼ばれているようで、古い山の本には角取山つのとりやまと表現されています。


展望台は富士山方面が開けていました。


畑尾山はたおやまを越えてアザミ平に来ました。富士山のエリアなので、ここでのアザミはフジアザミだと思うんですが、冬枯れの姿は見られませんでした。


箱根方面が見渡せたアザミ平です。天城山もよく見えました。


緩やかな稜線はブナが目立ってきます。大きなものには目を見張りました。


広葉樹の森なのでこの時期ならではの͡展望です。三国山が見えています。


暖冬です。火山灰の地面が凍っていませんでした。手袋なくても問題ないくらいの気温でした。


根張りは表面だけなのでしょう。根っこがめくれ上がった木。戻してあげたいくらいでした。


大洞山でティーータイム。最中の中にフリーズドライのお汁粉が入ったもの。お湯を注ぐだけでおいしくいただけました。


天城山のへびブナにも負けないくらいの曲がり。


三国山手前のズナ峠。篭坂峠が甲斐の國への玄関口と書きました。本当のことはわかりませんが、200年前の地誌、甲斐国志には宝永四年(1707年)の宝永山の噴火以前は、現在の篭坂峠のルートは険しく、このズナ峠の方が多く使われたんだけど、宝永山の噴火の火山灰で険しい沢が埋まって、それ以降主要なルートがズナ峠から篭坂峠に代わったと読み取れる記述があるんです。今でも古道を辿って山中湖から小山町にトレース出来るようですが。


稜線上にたくさんあった宮標石。これらは明治時代の設置です。


ピークというより稜線上の突起に過ぎない三国山。ここで尾根が別れて甲斐と駿河、相模の境です。


三国峠


ススキのはげ山のイメージの鉄砲木ノ頭への登り返し。最後にこのピークに登るのはまさしく展望を期待してです。木がないので素晴らしい展望です。


登りの途中から振り返りました。細かなアップダウンですが緩やかな稜線です。どこがどのピークかわからないくらいになだらかですが、一番左が三国山です。


山中湖と南アルプス。甲斐駒から赤石岳までが見えています。赤石以南の山は富士山が隠しています。


そして富士山。左の白い宝永山と、右の黒い小御岳の小さな出っ張りが見えるというのが山中湖からの富士山です。


帰りに吉田のうどん!馬肉とキャベツと醤油と味噌、辛味のすりだね。典型的な吉田のうどんでしたが、もっと固い麺を期待していた僕・・・


2020年2月11日火曜日

甲信国境稜線

ほとんど放置していたブログです、ごめんなさい!でした。家族の事情で約2ヶ月間山に向き合えない状況でした。状況が好転して山に行ける!ってことで出掛けた山行です。甲信国境稜線なんて大袈裟な表現なんですが、清里周辺の尾根の話しです。

韮崎から佐久方面に通じる佐久往還という古道を辿って現在の野辺山から千曲川に下ろうとしています。野辺山から川上村に下る途中にあったサインの御所平。仰々しい御所という言葉のイメージは皇室ですが、そこの詳しいことはわかりません。ただ韮崎から佐久の岩村田までの佐久往還の最大の難所が念場が原の今で言う清里から千曲川源流の海ノ口であることは間違いないという場所です。


千曲川上流左岸の小海線信濃川上の駅がある御所平から、甲州への脇街道の穂坂路と呼ばれる路を信州峠へと進みました。途中川上村指定の天然記念物とされてるモミの木の史跡。山梨と信濃を結ぶ峠越えの古道であることを教えてくれる馬頭観音などの石物が並んでいました。


国境稜線なんて大袈裟なタイトル、山梨と長野の県境の稜線なんですが、この県境の北の川千曲川は日本海に流れ、南は太平洋に流れる中央分水嶺の尾根です。写真は千曲川支流黒沢川の支流の七森沢に向かってます。見えているのは女山。いちばん奥の山です。


レタスなどの高原野菜の産地、畑と里山の境界にはフェンスが張り巡らされていて、何も考えずに山から下りてなんてことは出来ないので注意が必要です。逆もしかりで、里山に入れる場所は限られている川上村です。


国境稜線の北側の川上村の里山は、ほとんどカラマツの植林された山でした。そのことは地形図を見てはわからないことです。稜線に上がったら͡しっかり見えた女山の山頂です。


県境の稜線に向かいました。ひざ下くらいの積雪があって、これじゃスノーシューがあればよかったなと反省。トレースがあれば、先行者がいればちょっとは楽に歩ける雪の山。当然そんなことは叶わないので、鹿でしょうか?獣のトレースを利用して進みました。


稜線上の1660m周辺の写真です。手前よりも1670mの標高の北側の方が気持ちよくテントが張れる感じでした。水は東の七森沢の上流部で取れる感じです。少し下っても30分くらいで水は確保できるでしょう。


県境、甲信国境稜線の豆腐岩。ここで中央分水嶺に乗っかりました。


東に、山梨百名山の横尾山に進みました。主稜線なんで古いトレースがあったので有り難く使わせていただきました。


手前の穏やかなピークが女山、奥の尖がりが男山。男女がそろいました。


さらに奥に見えた浅間山。冬らしい真っ白な姿に安心しました。冬らしい景色ということです。


横尾山1818.2m山頂


信州峠から簡単にピストン出来る横尾山です。横尾山の魅力は瑞牆山の展望です。これは僕の理想ですが、いつか夕焼けに輝く瑞牆山をここから見てみたい!そんなガイド山行をいつかやってみたい!そのくらいこの場所からの景色は魅力的なんです。


国境稜線にいるので、山梨なのでお約束の富士山もしっかり登場です。


七森沢に置いた車に最短で戻るべく、横尾山北の尾根を下りました。地形図を見ていただければ良くわかりますが、どうルートを取るかというのは正しく地図読みです。写真は真っすぐ下ると崖になってしまうので、手前で調整という展開です。地図読みです。


ここは本当に細かく尾根と沢が展開している地形。実は2年前くらいでしょうか?このエリアでOMMの大会があって、それに参加する人達向けに考えたルートです。実際はもっと北側のルート設定でしたが、この場所で地図読みをしたかったというのは本音です。


正面の山は天狗岳。うまい具合に里山から川上村の畑にフェンスのトラブルに会うことなく下ってこれました。ちょうど信州峠を越える穂坂路の脇です。