2020年11月27日金曜日

烏ノ尾根

ゴトメキ手前2100ⅿ地点の夜明け。シルエットは黒金山。東奥山窪から大ダオに登った翌日も絶好の登山日和でした。


倒木だらけではありますが、さほど太いものはなかったので通過に苦労ってほどでもありませんでした。


倒木処理がなされたのもだいぶ前の様で、処理された数倍の倒木って感じ。こんな所の通過もコツがあって、うまく言えませんが地面にこだわらないってことでしょうか。安定していればどんどん倒木に乗っかってしまえば良いんです。


ゴトメキ。なだらかなピークは分岐、石楠花新道と言われる登山道を北に行けば北奥千丈岳、国師ヶ岳に通じ奥秩父の主稜線です。石碑は昭和40年5月の遭難碑。


ゴトメキから南西に延びる尾根は、三角点のある遠見山まで等高線2~3本の標高差しかない緩やかなもので、もう冬に入った時期の枯葉が物語るのは夏の時期のやぶ。落葉した時期とは違ってなかなか難しい夏だと想像できます。


4~5個数えられるなだらかな小ピークの間は草地で、いくつか幕営適地だろうと思いました。夏でも快適にテントを張れると思います。


ゴトメキから数えて2つ目と3っつ目のピークのコルの東。稜線から5分もかからないで水場です。稜線から水場まで往復10分くらいなんで貴重な水場です。


ゴトメキから遠見山、下遠見までは短い距離ですがトレースがあるようなないような、尾根も広いのでルート取りが難しい区間です。そんな中、下の地図に示している水場。この稜線上で貴重な水場です。幅広の尾根からでも簡単に行ける水場です。ひょっとしたら昭文社の山と高原地図にのっけてほしいくらいの素晴らしい水場です。


水場に下る草地の景色。


遠見山山頂。


遠見山2234.1m三角点からさらに下った2200mピークは、下遠見と言われていて縞枯れ現象が見られますが歩くのには問題ありません。


下遠見の南の笹原。この辺りから南に下るのが烏ノ尾根と呼ばれるようで、南西には大丸戸尾根が分かれます。写真に馬止根場や東御殿のピークが見えています。


琴川ダムの乙女湖と笹原。


北西方向に八ヶ岳がくっきり見えました。


1940ⅿ標高点の北側には林道が通っています。


法面のブロックをどう下ろうかと苦労してこないした後、林道に立ってみたら梯子があったってオチ。


大烏山おおがらすやま、はっきりしたピークという体をなしていない山なんですが、西の琴川側にヒナ岩という岩場があって、そちら側から見ると立派なピークに見えるわけです。烏ノ尾根というタイトルだから大烏山が主峰かと言えばハズレ。琴川の上流部から荒川上流部、笛吹川上流西沢上流部は人々の営みが色濃く、それはまさしく林業関係となるのですがエリアとして奥千丈と言われてきたエリアだと思います。原全教の「奥秩父正・続編」昭和8年7月15日 朋文堂発行の本に詳しく考察されています。その本の著者紹介の写真が大烏山山頂の原全教なんです。その写真には憧れにも似た感情があります。


大烏山のピークは標高約1840mの等高線の小ピーク。ちょうど尾根の分岐で、そのままヤセ尾根を南で雛岩、東に向かうと馬止根場です。甲斐国志には大殻巣という当て字で登場します。鷹狩に使う鷹の巣がある場所ということなんでしょうが、その巣が空っぽだったという当て字なので、なんだかオヤジギャグみたい…大殻巣、小殻巣→大烏山、小烏山。馬止根場のピークを樹間から。


大烏山前後から岩場が登場しますが、通過に問題になる事はほぼないです。


馬止根場1772.8m。このピークの北側から昔の仕事道が現れます。その仕事道の道形は馬止根場ピークの東側を巻いています。山仕事のための道はピークにこだわりません。里から山に入って馬止根場南の平坦地で馬を繋いでいた場所があったってことで、この馬止根場という地名になったそうです。


恩賜林の境界も登場しました。


右下に小烏山1403m標高点と奥に͡͡小楢山。


西御殿と言われているピークは同定できていません。写真の前後だと思いますが。


樹間から東御殿。


昔の山仕事の道の道形。


東御殿1487.0m三角点。御殿というのは岩場を指す言葉だそうで、このピークの西には麓から岩が確認できるそうです。


東御殿三角点ピークのすぐ南にある石積み。まるで祠のような石積の中には木製の破片。


だいたいこんなはっきりした道形は馬が運搬に活躍したものです。


樹間の向こうに大久保山。


大久保山1323ⅿ標高点の明治時代の御料局三角点標石。


山仕事の道形は西の稜線上にあって、大久保山からのはっきりした南東に下る尾根の読図はちょっと難しいです。


何もなかった大久保峠。馬頭観音とかなんかしら、峠らしい痕跡がなかったということです。


牧丘川にははっきりした道形が残っていた大久保峠でしたが、北側の徳和集落への道は心許ないものでした。すぐ横にあった廃林道を使って下りました。


徳和集落。里に近いエリアで様々な地名が登場して、それらが果たしてどこなのかということは大変な検証が必要だと思いました。ただそれらを調べることによってこの辺りを歩くこと意味が貴重なものになると思いました。人と自然のつながりという意味で。


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