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2024年7月3日水曜日

姫神山

二百名山の姫神山です。どんな山より均整の取れた、どっしり安定した姿が素晴らしい姫神山は盛岡周辺を移動していると目に飛び込んでくる印象です。なんだか上手く表現できないけど、ほんと気になっていた山でした。

秋田の山を諦め中途半端な時間に秋田から移動して決めた姫神山登山。姫神山の裾野を走っているときに見た、今では珍しいタバコの畑の写真。ちょうど花が咲いていました。タバコの葉の栽培は八ヶ岳の麓で昔は盛んに行われていたので懐かしい感覚でした。タバコの葉っぱは栽培されている時から専売公社に管理されていたと聞いたことがあります。もはや前時代の遺物みたいなタバコですが。

複数ある登山口の中で、地形図を見て決めた一本杉登山口。

途中で散乱していたアカゲラというキツツキの羽。猛禽にやられたのだと思います。ご愁傷様。

一本杉ルートの象徴の一本杉。



どのくらい前に整備された登山道なのかはわかりませんが、いただけない階段です。山の魅力が半減してしまう階段…


沢地形からひと登りで尾根に上がるところが五合目でした。地形図上の730m標高点がそれでした。


標高900mの尾根上にあった道しるべ。「指導票 下ル二ハ右」と書かれていました。登りながらの道しるべだったので、登る人には「上ルニハ左」と掘られていたかもしれません。判読出来ませんでした。大正の年号が書かれたいた道しるべです。


ミヤマオダマキがたくさん咲いていました。


はじめて見たクモキリソウ 雲切草 何んとも地味な花ですが目の前に飛び込んできた感覚でした。


ヤマブキショウマは咲き始め。


山頂に近づくにつれ大岩の間を縫うような登山道でした。


もっとも形のいい岩手山が見られるということでしたが、残念ながら雲の中で、雨雲は岩手山のほうからやってきました。


南側に見えた風力発電の風車。


山頂にあった石祠。


姫神山山頂標識。展望の山頂でしたが雨雲が迫り雨も降りだしホウホウの体で下山しました。


八合目からはこんな大岩がゴロゴロしていました。この大岩を見て思い出したのが岩手で有名な石割桜でした。岩手県庁の敷地内にある岩の割れ目から生える桜の大木の根元の岩にそっくりだと思いました。


ずっと秋田駒ケ岳周辺を歩いていましたが、大雨とクマの被害から逃れたくて来た岩手を代表する山の一つ姫神山でした。


2024年6月27日木曜日

二軒小屋

畑薙ダム奥の沼平のゲートです。午前5時、大井川東俣林道の通行許可をもらっていて、決められたルーチンをこなしてゲートを通過。目的は大井川東俣の枝沢をトレースすることでした。なかなか自由に行動できない大井川源流部の二軒小屋周辺の今を記録しておきます。


畑薙ダム手前の臨時駐車場に車を停めて、東海フォレストの宿泊者のための(赤石小屋や千枚小屋などの東海フォレストが運営している山小屋に宿泊予定の前提)送迎バスに乗って椹島に移動がこのエリアの登山のスタイルっていうのが特殊です。


登山とは関係ない国家プロジェクト、リニア中央新幹線工事の関係です。畑薙ダムから椹島、二軒小屋に行く唯一の東俣林道は道路整備がどんどん進んでいます。ダートだった静岡市営林道はコンクリートの林道に変化しています。すべてカバーされていませんが、85%はコンクリートの林道です。ダートだった時代は車の天井に頭をぶつける感覚でした。圧倒的に走りやすくなった東俣林道です。


前日までの降雨でかなり増水していた大井川源流は、二軒小屋の田代ダムの本流の流れから頭を抱えたくなるくらいの増水でした。


大井川西俣と東俣の合流地点。明らかに西俣のほうが水量が多いと思いました。


大井川西俣、東俣の林道分岐。東俣に入ります。


どのくらい前かはわかりませんが、昭和の時代に車も通ることが出来た東俣林道ですが、まったくの廃道で沢の部分は土砂の堆積でした。


シャガ沢という沢を狙っての入山でした。


立木でロープを使って対岸に渡ろうとしました。東俣林道は東俣の右岸、シャガ沢は左岸なので本流を渡渉しなければなりません。ここのところの雨で増水している東俣。一番のハードルは本流の渡渉だろうと想像していたらその通りになった展開。ロープをつけて5m進んだら股間がずぶぬれになり渡渉はあきらめました。


バイカウツギ


コアジサイ


沢を敗退して二軒小屋に戻りました。写真はみんなが知っている二軒小屋の写真だと思います。料理がおいしくてホスピタリティにあふれていた二軒小屋...


工事関係者の基地になってしまった二軒小屋は、登山者にトイレも提供していない今です。許可をいただいて車で来た僕らです。東海フォレストは椹島から二軒小屋の送迎もしていないので登山者にははるか遠い二軒小屋の今です。


ブログ記事の谷渡沢の山行で気になった実生の葉っぱ。サワグルミだとわかりました。クルミなのでクルミの殻があるかと思ってみていましたがサワグルミはペらぺらの種なんでありだと。


まぼろしという冠詞の「伊奈街道」は伊那谷の大鹿と、富士川の切石とをつなぐために明治5~6年に計画され、明治19年頃に完成した道路で、写真はその痕跡の石積みです。大井川の渡渉がかなわないので伝付峠に目的を変えました。


かなり急な古の峠道です。


この時に大いに盛り上がったのは明治期の探検登山の話し。1906年(明治39年)【8月から9月、荻野音松が長期山8月22日に川浦を出て京ノ沢から奥千丈、金峰山に登り、甲府に下って早川へ。下湯島から新沢峠を越えて大井川に下り、小西俣を経て三伏峠に登り大河原へ抜ける。この時、「悪沢岳」の存在が世に出る。】      南アルプス市山岳館


何かというと、この話は有名な探検登山の時代の話しです。今のようなまともな地形図もない時代、山名も定かではない時代に山梨の早川から長野の大鹿村に抜けた山行記録を書いた荻野音松。山中で雇った早川の猟師から聞いた悪沢という地名。悪沢岳は東岳ではありません、はっきり悪沢岳なんだというエピソードです。


歴史を醸す伝付峠


山梨側に5分ほど下ったところの水場は健在でした。


伝付峠から二軒小屋に戻りました。工事関係者の宿舎が立ち並ぶ二軒小屋です。開発と山奥の建物はつながっていて、井川ダムを作るときに物資を運ぶために作られた大井川鉄道、赤石ダムの工事関係者の宿舎だった椹島の建物、二軒小屋は登山者を排除している今ですが、工事が終われば登山者用に転用される建物になるように思います。


とにかく井川は奥深いところです。前日問題なく山梨から井川に入れたのに、帰りは井川ダム手前で通行止め。土砂崩れが理由のようですが、千頭経由の国道362号はまさしく酷道なので大っ嫌いな道なのですが通れるだけましなのが井川のアプローチなんです。



2024年6月24日月曜日

谷渡沢

国道140号、笛吹川の広瀬ダムの広瀬湖が左、正面は木賊山と鶏冠尾根です。

所属する静岡山岳自然ガイド協会の研修で行った沢登り。まったく有名ではない谷渡沢は広瀬湖にそそぐ笛吹川左岸の沢で、最後は奥秩父主稜線の古礼山に突き上げる沢です。

しばらく使われなくなった廃林道を進むのですが、流れの両岸がオオバアサガラに覆われていてちょうど花盛りで少し驚きました。白いゴージャスに感じた花でした。


クリンソウが残っていました。かなりシカに食べられてはいましたが。


このくらいの滝が2こ。高巻きをするほどでもなく素直にそのまま登れました。


確実に、より安全に、ロープワークの確認をしながら登りました。


マタタビの花も満開でした。


だいたい沢の詰めは急なものです。縦方向にロープを固定して、それぞれがロープにセルフビレイを取って登ります。複数人いる場合は次のピッチにどういう段取りでロープを延ばしていけば早くこなせるか?なんてことの確認をしながらです。


予定の幕営地は標高1800m圏でした。


翌朝、笹原の中にダケカンバやトウヒ、いろんなカエデの木が点在していて、まるで楽園のような場所に何度も歩みをとめて見とれました。


富士山も見えてバッチリでした。


標高差で200mも登れば奥秩父の主稜線です。主稜線に出れば立派な登山道があります。


まだ登山が一般的ではない明治期の探検登山を想像しました。登山道がなく、猟師なんかを山案内人に雇い、沢筋を歩いて高みを目指した登山。登山史に登場する小暮理太郎や田部重治の気持ちがわかる場所に思えた古礼山の南。現在の僕らは二五万図を手に自由自在に山々の中を歩くことが出来ます。もちろんその場所の植生にもよりますが。


古礼山の南の最低鞍部に上がり登山道を歩いて山頂に行きました。


古礼山の南西の尾根を下りました。それにしても古礼山の南側がこんなに素敵な場所だったとは。僕らが幕営した標高1800m圏は古い切株が見られました。伐採などで人の手が入っても、自然の力で更新している森林のことを天然林と言います。伐採後も、周囲の樹木の種子が発芽・成長することで自然に森が回復されます。伐採をした後に種子が発芽して成長し、再び形成された森で、そのことを‘天然更新’と言うそうです。


谷渡沢南の長い尾根の途中唯一あった三角点の点名は「広川」、広川は尾根の南の沢です。


かなり充実感をあふれた山行でした。