2024年6月27日木曜日

二軒小屋

畑薙ダム奥の沼平のゲートです。午前5時、大井川東俣林道の通行許可をもらっていて、決められたルーチンをこなしてゲートを通過。目的は大井川東俣の枝沢をトレースすることでした。なかなか自由に行動できない大井川源流部の二軒小屋周辺の今を記録しておきます。


畑薙ダム手前の臨時駐車場に車を停めて、東海フォレストの宿泊者のための(赤石小屋や千枚小屋などの東海フォレストが運営している山小屋に宿泊予定の前提)送迎バスに乗って椹島に移動がこのエリアの登山のスタイルっていうのが特殊です。


登山とは関係ない国家プロジェクト、リニア中央新幹線工事の関係です。畑薙ダムから椹島、二軒小屋に行く唯一の東俣林道は道路整備がどんどん進んでいます。ダートだった静岡市営林道はコンクリートの林道に変化しています。すべてカバーされていませんが、85%はコンクリートの林道です。ダートだった時代は車の天井に頭をぶつける感覚でした。圧倒的に走りやすくなった東俣林道です。


前日までの降雨でかなり増水していた大井川源流は、二軒小屋の田代ダムの本流の流れから頭を抱えたくなるくらいの増水でした。


大井川西俣と東俣の合流地点。明らかに西俣のほうが水量が多いと思いました。


大井川西俣、東俣の林道分岐。東俣に入ります。


どのくらい前かはわかりませんが、昭和の時代に車も通ることが出来た東俣林道ですが、まったくの廃道で沢の部分は土砂の堆積でした。


シャガ沢という沢を狙っての入山でした。


立木でロープを使って対岸に渡ろうとしました。東俣林道は東俣の右岸、シャガ沢は左岸なので本流を渡渉しなければなりません。ここのところの雨で増水している東俣。一番のハードルは本流の渡渉だろうと想像していたらその通りになった展開。ロープをつけて5m進んだら股間がずぶぬれになり渡渉はあきらめました。


バイカウツギ


コアジサイ


沢を敗退して二軒小屋に戻りました。写真はみんなが知っている二軒小屋の写真だと思います。料理がおいしくてホスピタリティにあふれていた二軒小屋...


工事関係者の基地になってしまった二軒小屋は、登山者にトイレも提供していない今です。許可をいただいて車で来た僕らです。東海フォレストは椹島から二軒小屋の送迎もしていないので登山者にははるか遠い二軒小屋の今です。


ブログ記事の谷渡沢の山行で気になった実生の葉っぱ。サワグルミだとわかりました。クルミなのでクルミの殻があるかと思ってみていましたがサワグルミはペらぺらの種なんでありだと。


まぼろしという冠詞の「伊奈街道」は伊那谷の大鹿と、富士川の切石とをつなぐために明治5~6年に計画され、明治19年頃に完成した道路で、写真はその痕跡の石積みです。大井川の渡渉がかなわないので伝付峠に目的を変えました。


かなり急な古の峠道です。


この時に大いに盛り上がったのは明治期の探検登山の話し。1906年(明治39年)【8月から9月、荻野音松が長期山8月22日に川浦を出て京ノ沢から奥千丈、金峰山に登り、甲府に下って早川へ。下湯島から新沢峠を越えて大井川に下り、小西俣を経て三伏峠に登り大河原へ抜ける。この時、「悪沢岳」の存在が世に出る。】      南アルプス市山岳館


何かというと、この話は有名な探検登山の時代の話しです。今のようなまともな地形図もない時代、山名も定かではない時代に山梨の早川から長野の大鹿村に抜けた山行記録を書いた荻野音松。山中で雇った早川の猟師から聞いた悪沢という地名。悪沢岳は東岳ではありません、はっきり悪沢岳なんだというエピソードです。


歴史を醸す伝付峠


山梨側に5分ほど下ったところの水場は健在でした。


伝付峠から二軒小屋に戻りました。工事関係者の宿舎が立ち並ぶ二軒小屋です。開発と山奥の建物はつながっていて、井川ダムを作るときに物資を運ぶために作られた大井川鉄道、赤石ダムの工事関係者の宿舎だった椹島の建物、二軒小屋は登山者を排除している今ですが、工事が終われば登山者用に転用される建物になるように思います。


とにかく井川は奥深いところです。前日問題なく山梨から井川に入れたのに、帰りは井川ダム手前で通行止め。土砂崩れが理由のようですが、千頭経由の国道362号はまさしく酷道なので大っ嫌いな道なのですが通れるだけましなのが井川のアプローチなんです。



2024年6月24日月曜日

谷渡沢

国道140号、笛吹川の広瀬ダムの広瀬湖が左、正面は木賊山と鶏冠尾根です。

所属する静岡山岳自然ガイド協会の研修で行った沢登り。まったく有名ではない谷渡沢は広瀬湖にそそぐ笛吹川左岸の沢で、最後は奥秩父主稜線の古礼山に突き上げる沢です。

しばらく使われなくなった廃林道を進むのですが、流れの両岸がオオバアサガラに覆われていてちょうど花盛りで少し驚きました。白いゴージャスに感じた花でした。


クリンソウが残っていました。かなりシカに食べられてはいましたが。


このくらいの滝が2こ。高巻きをするほどでもなく素直にそのまま登れました。


確実に、より安全に、ロープワークの確認をしながら登りました。


マタタビの花も満開でした。


だいたい沢の詰めは急なものです。縦方向にロープを固定して、それぞれがロープにセルフビレイを取って登ります。複数人いる場合は次のピッチにどういう段取りでロープを延ばしていけば早くこなせるか?なんてことの確認をしながらです。


予定の幕営地は標高1800m圏でした。


翌朝、笹原の中にダケカンバやトウヒ、いろんなカエデの木が点在していて、まるで楽園のような場所に何度も歩みをとめて見とれました。


富士山も見えてバッチリでした。


標高差で200mも登れば奥秩父の主稜線です。主稜線に出れば立派な登山道があります。


まだ登山が一般的ではない明治期の探検登山を想像しました。登山道がなく、猟師なんかを山案内人に雇い、沢筋を歩いて高みを目指した登山。登山史に登場する小暮理太郎や田部重治の気持ちがわかる場所に思えた古礼山の南。現在の僕らは二五万図を手に自由自在に山々の中を歩くことが出来ます。もちろんその場所の植生にもよりますが。


古礼山の南の最低鞍部に上がり登山道を歩いて山頂に行きました。


古礼山の南西の尾根を下りました。それにしても古礼山の南側がこんなに素敵な場所だったとは。僕らが幕営した標高1800m圏は古い切株が見られました。伐採などで人の手が入っても、自然の力で更新している森林のことを天然林と言います。伐採後も、周囲の樹木の種子が発芽・成長することで自然に森が回復されます。伐採をした後に種子が発芽して成長し、再び形成された森で、そのことを‘天然更新’と言うそうです。


谷渡沢南の長い尾根の途中唯一あった三角点の点名は「広川」、広川は尾根の南の沢です。


かなり充実感をあふれた山行でした。

2024年6月23日日曜日

裏岩手縦走

裏岩手というのは日本百名山の八幡平と岩手山を結ぶルートで、ゆるやかな尾根を延々と歩きます。開山直後の花の時期ということで盛岡駅スタート。大宮から2時間かからないで移動できる東北新幹線はすごいですね。盛岡駅前の噴水には北上川を遡る石のサケが泳いでいました。

長距離縦走を無理なくするために1日目は移動日にしました。露天風呂で有名な藤七温泉に泊まりました。移動中のバスから見た岩手山は雲の中でした。

八幡平樹海ラインから見た藤七温泉

藤七温泉近くを散歩していたらミズバショウが咲いていました。

夕食前に入ったお風呂は宿泊者用のもの。あったまって硫黄の香りにつつまれました。

食事は本当に山菜尽くし。旬のネマガリタケのタケノコがたくさん。


縦走に先立ち露天風呂に入った翌朝。

雨具を着て始まった縦走初日。展望を期待していた畚岳(もっこだけ)は雨なので割愛しました。その先に出てきた残雪。畚もっこは縄、竹、蔓などで編んだ運搬用具のことで、山小屋なんかで見かける荷揚げのヘリコプターがぶら下げています。

シーズン始まったばかりでもしっかり整備されていた登山道でした。

諸桧岳(もろびだけ)を通過し嶮岨森(けんそもり)手前でよく見えた鏡沼。諸桧岳もろびだけの諸桧もろびはアオモリトドマツ(オオシラビソ)のことだそうで、この地方の方言だそうです。嶮岨森けんそもりの嶮岨は険しさを表わす言葉だそうです。そういえば山頂はやせて尖がっていた嶮岨森けんそもりでした。

大深山荘ではトイレを借りました。東北地方の避難小屋はどれもしっかり管理されていてきれいでした。だいたいトイレが小屋の中にあります。

大深山荘の水場は小屋から5分でした。登山道わきのお花畑にはヒナザクラがたくさん咲いていました。

大深岳(おおふかだけ)で源太ヶ岳の分岐を過ぎて南下、小畚山(こもっこやま)は急登でしんどい登りでした。よらなかった畚岳と比較して、小畚じゃなく大畚じゃん!というのが実感でした。

三ツ石が3つとおぼえて通過した三ツ石周辺。三角点ピークの点名は三ツ石、写真は三ツ沼、そして三ツ石山を越えていきます。


三ツ石山の下り。午後3時くらいに通過したのでヘロヘロで神経使いました。

オオバキスミレ 大葉黄菫

ネマガリタケの花

イワナシ 岩梨はツツジ科 

オクエゾサイシン 奥蝦夷細辛の葉はヒメギフチョウの幼虫の食草

雨の日のサンカヨウ 山荷葉 荷葉はハスの葉っぱのこと

ムラサキヤシオツツジ 紫八染躑躅

ホソバイワベンケイ 細葉岩弁慶

シラネアオイ 白根葵


イソツツジ 磯躑躅


ウコンウツギ 鬱金空木 北海道~東北地方北部の亜高山帯に分布

ヒナザクラ 雛桜 北東北を代表する花です。

ミヤマハンノキ 深山榛の木 上に突き出ているのが雌花、下に垂れ下がっているのが雄花


ナンゴクミネカエデ 南国峰楓の花


ミツガシワ 三柏は氷期の生き残り

三ツ石小屋にお世話になりました。避難小屋ですが管理人はいませんでした。夕食はネマガリタケのタケノコのカレーとタケノコの味噌汁。

3日目の朝

まずは大松倉山

網張温泉分岐。グリーンシーズンも営業しているスキー場のリフトを使えば1時間で来れる場所です。

姥倉山の稜線。リボンのマーキングがロープの奥に点在していて、よく見ると噴気みたいなものが上がっていました。三角岩の写真です。


【登山道は、地温の高い場所を通っています。高温で軟弱な熱泥箇所がありますので、軟らかい 泥を踏み抜かないように注意してください。また、登山道の近くに空洞や噴気孔がありますの で、登山道(ロープ)の外には出ないでください。】
                         雫石町・八幡平市・盛岡森林管理署
注意喚起の看板の地図には、登山道30cm下の温度が4つに分類され書かれていました。40℃以下、40~60℃、60~80℃、80℃以上高温危険と色分けされていて、当然高温危険は赤色で表現されているのですが、三角岩周辺は真っ赤でした。

切通からひと登りで鬼ヶ城と岩手山山頂が間近になってきました。岩手山は一つの火山ではなく、西岩手と東岩手の2つの成層火山(溶岩の流出と,火山・火山灰・軽石などの放出がくりかえし行われてできた円すい形の火山・まさしく富士山です)から成っています。西岩手の外輪山が鬼ヶ城です。北の外輪山が屏風尾根です。切通から鬼ヶ城最高地点まで約400mのアップダウンでした。


鬼ヶ城の核心はこのチムニーです。

礫がしっかりしているのでホールドスタンスは豊富です。それでもしっかりしたものかどうかはそれぞれ確認して登ります。


すぐ目の前に岩手山。東岩手の山頂は薬師岳でそこが最高地点で岩手山山頂、なんだかややこしいですね。

無事に鬼ヶ城を通過して、この日お世話になる不動平(ふどうたい)避難小屋。

不動平避難小屋の上に雪渓があったので水が取れるかも!との期待は裏切られ…


八合目の避難小屋の水場です。岩手山の中心と思える小屋ですが、この日管理人さんはいませんでした。

4日目の朝

この日のコースの説明をした図。小石が不動平避難小屋です。

不動平避難小屋横には不動明王像が三体。石積みで囲われた山岳信仰の遺跡です。

いよいよ岩手山に登ります。雲海の向こうには早池峰山が見えました。2年前に早池峰山をご一緒した皆さんだったので、登った山はみんな親戚みたいに思えるので盛り上がった景色でした。

岩手山の山頂部、下から見ていた時点々とケルンでもあるのかな?木も生えていない山頂部なのでガスが出た時や荒天時の目印という意味もあるのでしょうがそれは観音様でした。信仰の山、岩手山です。

岩手神社奥宮

赤いのが山頂の薬師岳で、左が妙高山。

裏岩手縦走も最後です。歩いてきたそれぞれのピークを快晴の中確認できたことは素晴らしかったです。真ん中が八幡平です。


岩手山山頂。


西岩手火山群のカルデラの真ん中に御苗代湖が見えています。左奥の残雪の山は秋田駒ケ岳や乳頭山です。裏岩手縦走路もばっちり見えた朝でした。


このまるで獅子舞のお面のような石物は岩手神社奥宮にもたくさんありました。調べてみると「権現様」と言われているということがわかりました。写真の獅子舞の獅子頭の片割れのような石物です。岩手県北部だけではなく宮城や秋田なんかでも見られる「権現様ごんげんさま」ということらしいのですが詳しくはわかりません。それにしてもユニークな権現様です。


山頂から焼走りに下りながら、何度も裏岩手縦走路を見ます。そのくらい素晴らしい天気の最終日の4日目。手前に屏風尾根の岩のピークと赤倉岳が見えています。


平笠不動避難小屋。ここもトイレは小屋の中にありお借りしました。


小屋の下にあった八合目の丁目石。焼走りのルートも信仰のルートだったんです。


焼走りルートはなかなか厳しいルートで、僕らは下りで使ったのでまだましですがこのルートを登りだと修行になると思います。まるで富士山の大砂走の様だからです。わかりにくいのですが黒いのが江戸時代の寄生火山(側火山)焼走り溶岩流です。


余裕はない下山ルートでしたが、咲き始めたコマクサのボリュームは凄かったです。


樹林帯に入って出会ったコケイラン 小蕙蘭


これは江戸時代(1719年)に東岩手山の山腹にできた小さな寄生火山が噴火した噴火口跡です。当時の人たちが「焼走熔岩流」と名づけ、そこから3キロ近く流れ出た熔岩流は焼走り登山口で生々しい噴火の痕跡としてみることが出来ます。天然記念物の焼走り溶岩流です。



やっと着いたとため息が出るほどの焼走り登山口。


長い山行の締めはそのまんまの名前「焼走りの湯」。タイミングよく岩手山が登場し、ご苦労様といわれた気分でした。お疲れ様でした!