雑誌フィールダーの取材依頼で西上州の一本岩に行ってきました。なんだかんだで10年以上お付き合いいただいています。依頼のテーマは「古道と地図読み」、最近の僕の活動自体がそのままなので、比較的直近でインパクトのある場所ということで高立の一本岩を案内したわけでした。大好きな場所です。
信州佐久と西上州の関係から把握してほしかったので、下仁田の姫街道の西牧関所跡を訪ねました。東山道のオフィシャルな峠は碓氷峠ですが、佐久と西上州の間には多くの峠があります。脇街道ともいえる姫街道、下仁田でこの西牧関所とは別に、現在の群馬県南牧村の砥沢にあった南牧関所に分かれる説明からでした。砥沢はとても重要な場所です。
利根川の支流の烏川のさらに支流、鏑川上流の高立集落。鏑川支流の矢川合流の初鳥屋から北に行くと七曲りの急坂を越え軽井沢です。
鏑川支流の矢川の廃林道を進むとこつ然と現れる一本岩です。この場所の景色を初めて見る人にはすごいインパクトだと思います。
妙義山の星穴岳です。
【百合若大臣ゆりわかだいじん 幸若舞(こうわかまい・能や歌舞伎の原型といわれる14世紀から17世紀半ばにかけて流行した)のひとつ。剛勇の百合若大臣は、蒙古を攻め降ろした帰途、無人の玄海島に置き去られるが、国より鷹の使を得、帰国して悪臣を滅ぼすという異色ある作品。後に近松門左衛門の「百合若大臣野守鏡」などを生む。】広辞苑
星穴岳の穴はこの百合若大臣が力比べで弓を射抜いて空いた穴と言われていて、その弓が約10㎞先に刺さったというのが一本岩と言われています。山行が終わった後で横川まで移動して撮った星穴岳の写真です。
一本岩の麓の道形を進むと、日本で初めての洋式牧場と言われる神津牧場の敷地に入ります。そのコースの記述が山の詩人、尾崎喜八の「山の絵本」神津牧場の組曲(昭和7年作)に読むことが出来ます。
【高立目がけて七曲リの急坂を一気に降った。そして香坂峠からの路に合して幽邃な谷をさかのぼり、一本岩のスタックの根がたを廻って、いよいよ牧場への急な坂道にかかった。息は切れたが希望は眼前にぶら下がっていた。年来の楽しい空想が現実となるのである。その現実が、見よ、其処に、「神津牧場」と墨書した白い標柱となって立っている。私はつかつかと牧場の柵の中へはいって行った。・・・】
その尾崎喜八の抜粋です。写真は神津牧場の様子です。
午前8時から営業している神津牧場です。ちょっと寄ってジャージー牛のソフトクリームを!と牧場に行ってみるとなんと定休日。親しい方はご存じでしょうが、僕は凄い定休日男なんです・・・
香坂峠の道に入るとたくさんのジャージー牛に会いましたが、人懐っこいやつが愛嬌でした。
神津牧場から香坂峠への古道は現在でも生きています。その中間にある道祖神などの石造物。
その江戸時代の馬頭観音や道祖神とは離れた尾根側にある馬頭観音の写真です。これは香坂峠への古道から左に分かれる、志賀越と言われる古道の分岐です。出だしのところの道形は残っていましたが、なかなかか細い怪しいものでした。順調に時間をこなしていたので行ってみようとなりました。
この時に活躍したのは大正時代の古い地図でした。古い地図を読みながら志賀越を進みましたが道形はありませんでした。浅間山が見事だった稜線。

古い大正時代の地図、ゆるい尾根筋に歩道は書かれていたので、細かなところの同定は出来なくても絶対確認できると思った志賀越の存在は、以前主稜線を歩いた時に稜線上に馬頭観音を見つけていたからでした。その馬頭観音が見つかれば繋がると思いました。写真はそのゆるい尾根の様子です。
主稜線の馬頭観音、明治の廃仏毀釈で頭がありません。でもこの馬頭観音の存在が志賀越であると確信を持てます。志賀越の志賀は佐久側の宿で、そこの出身の人が志賀高原の開発を始めたといわれていて、志賀高原の志賀は佐久の志賀なんです。
主稜線は中央分水嶺です。すなわち東側は太平洋に流れ、西側は信濃川に合流して日本海に流れるということですが、ここで一本岩と妙義の星穴岳が1枚の写真に納まりました。手前の黄色が一本岩で、奥の黄色が星穴岳です。
矢川峠。百合若大臣が射抜いた星穴岳の穴~その矢が刺さった一本岩~そこを流れる鏑川~その鏑川の支流の矢川~源流の矢川峠ということなので見事に繋がっています!
矢川峠から高立集落への道がズタズタです。古い道形も部分的に残ってはいますが、基本軟弱な崩落地形で簡単な道ではありません。
ところどころ昔の道形は確認できます。
難所を無事通過して、この馬頭観音に出会える喜び!そんな風に思える表情の馬頭観世音。
主稜線の矢川峠から下ってきて、西側から見た一本岩です。一本岩に始まり一歩岩で終わる周回ルートはお勧めです。6月発行のフィールダーが楽しみです。