2023年11月11日土曜日

愛鷹山越前岳

昨日の山行です。ツアーのガイドを頼まれました。愛鷹山で一番高い越前岳。十里木登山口から須山の山神社に抜けるコース。昼前から結構な雨量になるかも知れないという天気予報だったので、全くときめきがない山行だなぁ、というのが正直な気持ちでした。

十里木からの登山道、駐車場からひたすら階段を登る閉口する登山道だと思っていました。地図を見たらその階段のルートの西、裾野市と富士市の境界の尾根が傾斜も階段ルートより緩いしということで初めて歩いてみた今回でした。それは正解で、その尾根から駐車場を見下ろします。


一般的に越前岳は登山初級というイメージだと思います。昨日は雨と風もあり、かなり難しいシュチュエ―ションでした。状況によっては出発した登山口に戻る可能性もあると説明して登りはじめました。越前岳の登山道はとても荒れていて写真のような岩が登場したりします。

この岩場ではロープを出しました。長めのお助けひも的なロープです。

十里木登山口から越前岳への登山道、さっきの岩場ほどではないにしろ基本ズタズタです。元々の登山道が深くえぐられて歩きにくいものだから、元々の道の左右にトレースがあります。えぐれた登山道を避ける状況になってかなりの時間が経っていて、トレースがありすぎて、どこをどう歩けばいいのかわからないというのが現状です。かなり厳しい登山道。


山頂手前で昼食。やまない雨の影響を最小にするために3×3mのタープを張りました。気温が10℃以上だったのでヤバいことにはならなかったのですが、全員にインスタントの味噌汁を配りました。
 

タープを張って昼食を済ませ、5分で越前岳の山頂。それぞれ記念写真を撮って足早に進みました。


越前岳からの下りも複数のトレースがありますが、十里木登山口の登山道より傾斜がないので比較的楽です。富士見峠からの下り(植林された木が成長して富士山は見えない峠)、愛鷹山荘の下で登場する石の階段です。昔の山仕事の道じゃないかと軽く思っていました。石の階段自体も時間の経過で不安定ですが、この石段は愛鷹山荘に行くためだと思いました。昨日の今日で山神社下の石碑のことを調べてら、この石段は愛鷹山の歴史だとわかったということを書いておきます。


こんなに悪いコンディションで、山神社の鳥居を無事に通過で下山でした。


無事下山の山神社の鳥居の横にある石碑です。「松永塚」と彫られています。

「昭和3年10月17日、大きな 地震があり位牌岳で静岡商業の2名がここで遭難した。  当時位牌岳には登山道がなく二人は迷って遭難した。 それを機に登山道を整備した。」遭難したのが松永さんということで松永塚です。  昭和3年の頃にはまともな登山道がなかった、その遭難を機に地元の有志で愛鷹山の登山道整備が始まった、その中心的な人物が裾野市須山に生まれた渡辺徳逸ということでした。山神社から越前岳へのルート、主稜線手前に今でも愛鷹山荘があります。そこに至る登山道が整備された石段だったのです。


晴れた日の松永塚の写真。
渡辺徳逸:明治33年(1900年)裾野市須山に生まれ、東京外語大に進学し,志半ばで帰郷した後、愛鷹山の整備,富士山須山口登山道の復興、青少年の育成などの業績を残し、平成18年(2006)105歳で没。昭和14年(1939)小島烏水の勧めで日本山岳会入会。会員番号1784号。冠松次郎との交流が始まる。

冠松次郎書というのが気になり調べました。冠松次郎は「[1883~1970]登山家。東京生まれ。黒部渓谷の遡行そこうに初めて成功。著「黒部渓谷」「山渓記」など。」なんで冠松次郎が登場するんだろう?イメージは富士山周辺ではなく、黒部の冠松次郎だからです。

富士山へのルートのひとつだった須山口の須山に生まれ、東京で学んだ明治33年生まれの渡辺徳逸が、昭和3年の松永青年の遭難を機に愛鷹山の登山道整備に地域ぐるみで取り組んだ記念碑が松永塚ということでした。冠松次郎の揮毫は、渡辺徳逸との交流の証ということだと思います。

0 件のコメント:

コメントを投稿