畑薙ダム奥の沼平のゲートです。午前5時、大井川東俣林道の通行許可をもらっていて、決められたルーチンをこなしてゲートを通過。目的は大井川東俣の枝沢をトレースすることでした。なかなか自由に行動できない大井川源流部の二軒小屋周辺の今を記録しておきます。
畑薙ダム手前の臨時駐車場に車を停めて、東海フォレストの宿泊者のための(赤石小屋や千枚小屋などの東海フォレストが運営している山小屋に宿泊予定の前提)送迎バスに乗って椹島に移動がこのエリアの登山のスタイルっていうのが特殊です。
登山とは関係ない国家プロジェクト、リニア中央新幹線工事の関係です。畑薙ダムから椹島、二軒小屋に行く唯一の東俣林道は道路整備がどんどん進んでいます。ダートだった静岡市営林道はコンクリートの林道に変化しています。すべてカバーされていませんが、85%はコンクリートの林道です。ダートだった時代は車の天井に頭をぶつける感覚でした。圧倒的に走りやすくなった東俣林道です。
前日までの降雨でかなり増水していた大井川源流は、二軒小屋の田代ダムの本流の流れから頭を抱えたくなるくらいの増水でした。
大井川西俣と東俣の合流地点。明らかに西俣のほうが水量が多いと思いました。
大井川西俣、東俣の林道分岐。東俣に入ります。
どのくらい前かはわかりませんが、昭和の時代に車も通ることが出来た東俣林道ですが、まったくの廃道で沢の部分は土砂の堆積でした。
シャガ沢という沢を狙っての入山でした。
立木でロープを使って対岸に渡ろうとしました。東俣林道は東俣の右岸、シャガ沢は左岸なので本流を渡渉しなければなりません。ここのところの雨で増水している東俣。一番のハードルは本流の渡渉だろうと想像していたらその通りになった展開。ロープをつけて5m進んだら股間がずぶぬれになり渡渉はあきらめました。
バイカウツギ
コアジサイ
沢を敗退して二軒小屋に戻りました。写真はみんなが知っている二軒小屋の写真だと思います。料理がおいしくてホスピタリティにあふれていた二軒小屋...
工事関係者の基地になってしまった二軒小屋は、登山者にトイレも提供していない今です。許可をいただいて車で来た僕らです。東海フォレストは椹島から二軒小屋の送迎もしていないので登山者にははるか遠い二軒小屋の今です。
ブログ記事の谷渡沢の山行で気になった実生の葉っぱ。サワグルミだとわかりました。クルミなのでクルミの殻があるかと思ってみていましたがサワグルミはペらぺらの種なんでありだと。
まぼろしという冠詞の「伊奈街道」は伊那谷の大鹿と、富士川の切石とをつなぐために明治5~6年に計画され、明治19年頃に完成した道路で、写真はその痕跡の石積みです。大井川の渡渉がかなわないので伝付峠に目的を変えました。
かなり急な古の峠道です。
この時に大いに盛り上がったのは明治期の探検登山の話し。1906年(明治39年)【8月から9月、荻野音松が長期山8月22日に川浦を出て京ノ沢から奥千丈、金峰山に登り、甲府に下って早川へ。下湯島から新沢峠を越えて大井川に下り、小西俣を経て三伏峠に登り大河原へ抜ける。この時、「悪沢岳」の存在が世に出る。】 南アルプス市山岳館
何かというと、この話は有名な探検登山の時代の話しです。今のようなまともな地形図もない時代、山名も定かではない時代に山梨の早川から長野の大鹿村に抜けた山行記録を書いた荻野音松。山中で雇った早川の猟師から聞いた悪沢という地名。悪沢岳は東岳ではありません、はっきり悪沢岳なんだというエピソードです。
歴史を醸す伝付峠
山梨側に5分ほど下ったところの水場は健在でした。
伝付峠から二軒小屋に戻りました。工事関係者の宿舎が立ち並ぶ二軒小屋です。開発と山奥の建物はつながっていて、井川ダムを作るときに物資を運ぶために作られた大井川鉄道、赤石ダムの工事関係者の宿舎だった椹島の建物、二軒小屋は登山者を排除している今ですが、工事が終われば登山者用に転用される建物になるように思います。
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