2024年5月20日月曜日

信州白山

信州白山は松本平を走る松本電鉄の終着駅、新島々駅の南にある1387.1mの山です。三角点点名も「白山」です。白山は日本三大名山のひとつ加賀白山で、あとの2つは立山と富士山なわけですが、時代とともに変化する理解が難しい話です。スイカで有名な松本波田地区の話ですが、水沢山とも言われていた波田の白山の中腹にあった若澤寺(にゃくたくじ)がすべてを物語ります。明治の廃仏毀釈、神仏分離で廃寺となったまぼろしの大寺院若澤寺(にゃくたくじ)の門前町だった波田地区です。伝承では奈良時代に僧侶行基により開かれ、征夷大将軍にもなった坂上田村麻呂も東征の時にここに来たみたいです。山中から移築された田村堂の田村は坂上田村麻呂の田村堂です。


若澤寺(にゃくたくじ)から移築された田村堂と仁王門の隣には地元の氏神様、波多神社があり、公民館とトイレもあります。上波田地区の歴史(昭和8年「波多村」から「波田村」へ変更)という説明がされていて、上波田地区街なみ環境整備事業として10年かけて整備されています。

屋根の棟(てっぺん)の鳥が羽を広げたような飾りは、雀おどし(雀おどり)と言って、信州に多い屋根の飾りです。

集落の辻には庚申塔や二十三夜塔、道祖神などの石造物

『室町時代、小笠原氏が波多山城と西光寺内城を構築、城下にあたる上波田地区は整然と街割りがなされ、旧野麦街道 沿いに城下町が形成されました。江戸時代になると、上波多村は若澤寺を中心として栄えます。当時この寺は水沢地籍にあって「信濃日光」と称され、 その景観や寺観の壮大さは、近在はもとより、全国からも 多くの参拝者が訪れました。若澤寺は明治四年に松本藩の廃仏毀釈により寺は取り壊され仏像等は散逸し、建物も周辺の寺に移され、現在は石垣などを残すのみです。上波田地区にある国重要文化財「田村堂」・県宝「仁王尊」 も若澤寺の遺物であり、上波田地区の歴史を語る上で若澤寺は切っても切り離せない存在です。江戸時代に繁栄したこの地区では、若澤寺への参拝の通行 のほか、飛騨へ通ずる道として「旧野麦街道」が重要な路線でしたが、後に「野麦街道(現国道158号)」が整備され町の中心も国道158号沿いへと移り、旧野麦街道沿いの集落として上波田地区には、今なお古い街なみが残され います。』 先ほどの説明文です。


盛泉寺 こちらには若澤寺(にゃくたくじ)の水沢観音堂をはじめいくつかのゆかりの品々が受け継がれ守られているそうです。


農業ため池の夫婦池


大きな山椒の木の芽を摘んでいる方がいました。佃煮にするそうで、ピリ辛ですね。


里山の小さな沢沿いの道は若澤寺(にゃくたくじ)裏参道で、途中から地形図の徒歩道とは異なる道形をたどります。


尾根に上がる道形にある丁目石。十二丁目と彫られたのは享保二十一年と読めます。1736年で、300年近く前のことです。参道であった証明の丁目石です。


途中の波多山城に展望はありません。


波多山城の様子。


沢沿いにたくさんあったコチャルメルソウ。


いったん水沢林道に出て、林道を少し登ると登場する案内。


沢沿いからひと登りで若澤寺(にゃくたくじ)跡の広い空間に出ます。


江戸時代後期に描かれた「若澤寺一山の略図絵」という絵図。


今は五段くらいの石垣が残されているだけですが、平らなところは発掘された伽藍の礎石が見られます。


尾根の上の送電線の鉄塔までは読図が必要です。


信州白山の三角点。


山頂の石祠。


若澤寺(にゃくたくじ)跡に戻り沢沿いに下ります。龍神様。
山形清水寺が隣の山形村にあります。この清水寺、京都東山にある清水寺と深い繋がりがあります。坂上田村麻呂が蝦夷征伐の際、山形清水寺を参詣し征伐の成功を祈願したところ、見事な成功を収めることができたため、山形清水寺の千手観音を京都へ移し、それが京都東山にある清水寺になったと伝えられています。さらに、山形清水寺の創設は729年とされていて、778年創設の京都清水寺よりも古くからあるとされています。つまり、真偽の程は定かではありませんが、言い伝えによると山形清水寺が京都清水寺の元祖ということになるのです!


三本の滝は、京都清水寺の音羽の滝を模した”雄鳥羽ノ滝おとはのたき”です。それぞれの滝にご利益があり、向かって左が学問成就、真ん中が恋愛成就、右が延命長寿の水だそうです。


下山に使った水沢林道は若澤寺(にゃくたくじ)への表参道です。こちらにも複数の丁目石が残されています。


上波田地区に下りてきました。昭和の初めに3つの村が合併するときに波多だったのですが、そのままだと波風が多い波多地区だということで波田に改名するわけです。「田」という漢字がぴったり当てはまる波田地区になって良かったと思える最後でした。

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