2025年3月31日月曜日

御前山

上野原の御前山に行きました。いつもは車で移動しますが、この日は電車。慣れない電車移動で少し緊張したのですが、朝の韮崎駅のタカトウコヒガンザクラはちょうど満開でした。


上野原駅です。桂川の河岸段丘は教科書にも載る地形です。上野原駅でその河岸段丘を実感できました。北口は段丘にぶち当たってしまうので狭く、広いロータリーが確保できる南口は、5階建てのビルになっていてエレベーターで降りました。南口は桂川の河畔なので、中央線は5階建てビル分高いところを走っています。上野原の街は中央線の一段上に広がっています。


その5階建てのビルから見た御前山(鶴島御前山です。鶴島はツルガシマではなく、ツルシマでした)ガラス張りなので展望台の様でした。


みなさんに紹介した山の本「車窓の山旅 中央線から見える山 山村正光著 実業之日本社出版1985年」、いろいろな山にご一緒する皆さんが一番乗車するのが中央線でしょう。登った山はよくわかるので考えた今回の御前山でした。これから中央線に乗るたびに意識される御前山、桂川右岸左岸の3つの御前山に登りました。鶴島御前山、栃穴御前山、四方津御前山です。


山村正光さん(昭和2年1927ー平成17年2005)高校の大先輩で、中央線の車掌をされていた山村さんは、僕が高校山岳部の頃、都内に山道具を買いに行くときに電車賃を負けてくれたりしました。先ずは鶴島御前山です。


桂川沿いにいくつもある御前山、戦国時代の狼煙台だったというのが定説です。山城、砦ということから山頂の手前はとても急峻な御前山たちです。


これは枕状溶岩では...玉ねぎの皮みたいな風化が見られました。枕状溶岩は、海底で噴出した溶岩が海水で冷やされて表面が固まり、さらにそれを突き破った溶岩がまた冷やされ、という過程が繰り返されることで丸い溶岩がいくつも積み重なったものです。凝灰岩主体の枕状溶岩は以前丹沢で見ました。海底火山が地球のプレート運動で運ばれてきたものです。


ミヤマシキミ深山樒がきれいに咲いていました。樒シキミ(和名の由来は実が有毒なことから、「悪しき実 アシキミ」のアが抜けてシキミに転じたといわれている。また、実の形から「敷き実 シキミ」といわれたなどの説もある。全体が有毒で、果実は猛毒)


今年お初のミツバツツジ


鶴島御前山の山頂


山頂わきの石祠。前面のハートマークは猪目 (いのめ)と言われ、日本古来の文様です。魔除けの意味があるそうです。猪目はそのままイノシシの眼ということでしょう。


カニの鋏と言われる岩はとても小さいのですが、ここを過ぎるとヤセ尾根の急傾斜が登場するので、その目印のような存在です。


これぞヤセ尾根の見本のようでした。


栃穴御前山の手前は長~いトラロープです。


栃穴御前山の山頂はとても平坦で砦感いっぱいです。


栃穴の吊り橋を桂川左岸に渡って、国道20号に出ました。


国道の押しボタン式信号をわたって、正面の尾根に上がります。


ここで失敗!中学校に裏の沢地形を登ったのは道が見当たらかったからでしたが、もっと注意してみれば東の尾根に道はあったようです。稜線手前で合流した道がそう思わせました。枯れ葉で足元が決まらないのでロープを張りました。等高線6本分の登りだからと甘く見ました。


新玉ねぎと新ジャガイモの春野菜のスープ。


咲き始めたシュンランにはたくさん会いました。


ロープを張った馬の背


3つ目の御前山、四方津御前山の山頂。点名は「四方津村」です。


おまけの4つ目の御前山、西御前への入り口もどこか人工的な感じでした。


西御前の山頂と奥の四方津御前山です。


コモアしおつという住宅地を歩いて着いたコモアブリッジというエレベーター入り口


バブルの頃に造成されたコモアしおつです。ニュータウンと中央線を結ぶためのエレベーターです。標高差は約100mで、ここでも桂川の河岸段丘に対応した街づくりということになります。斜めにスライドしていくめずらしいエレベーターでした。


去年は工事中だった四方津駅はきれいになっていました。上野原駅のエレベーターから始まり、四方津駅のエレベーターで終了した珍しい山行でした。


四方津駅から見た御前山。山村正光さんは「車窓の山旅 中央線から見える山 山村正光著 実業之日本社出版1985年」の中で強調していたのは、御前山はこの景色の中に漢字の山の字形に見えるというものです。


2025年3月28日金曜日

ミツマタ

写真の山は、南部の福士から見た篠井山です。4月に山行の予定ですが、奥山温泉からの登山道は見えていません。ここのところ一気に春めいてきて、間に合うか⁉という気持ちで出かけた南部町でした。何かというとミツマタの花です。

和紙の原材料として有名な、楮(こうぞ)、三椏(みつまた)、雁皮(がんぴ)のミツマタです。富士川右岸の奥の東海自然歩道の稜線上にミツマタの大群落があると最近知りました。ネット上では上徳間黄金街道とも言われるようです。黄金はミツマタの黄色からです。ミツマタは春を告げる花でもあります。篠井山から南に延びる尾根の上です。尾根の東の鯨野という集落から、西の上徳間という集落に通じる峠です。鯨野にもたくさんのミツマタでした。

東海自然歩道は、峠から落ちてくる沢沿いの道から入った後、尾根にいったん上がりました。

50年以上経っている東海自然歩道です。それだけ時間が経てば道も崩れます。特に沢に近いところはなおのことです。今は最低限の整備がされているようでした。

もともと地域で使われていた道だったと思わせる石積み。

鉄骨ベースの橋は東海自然歩道として整備されたものでしょう。3本あった橋の全てが鉄骨ベースでした。

上徳間に抜ける峠なので上徳間峠と言われている峠が見えました。


間に合ったミツマタの花。枝が必ず3つに分かれることからミツマタと言われるジンチョウゲ科の落葉低木です。ほのかに香ります。「三椏」「三股」「三又 」という漢字表現です。


稜線上のミツマタはなぜかすべて根元から切られていました。歩くしかない昔の峠道とは別に上徳間から鯨野まで通じている林道があり、その稜線上の林道わきに生えているミツマタです。ミツマタが和紙になるにはたくさんの工程があるようですが、まずは原材料の刈り取りからと言うことかも知れません。生木を刈り取って放置して軽くなってから回収なのかも?と思いました。本当のことはわかりませんが。

林道を軽トラックで走る範囲の刈り取りの様でした。ボリュームがあるミツマタ群落。

シロダモ(クスノキ科)「白梻」という木だと思います。杉ヒノキの人工林の中にたくさんありました。和名の「梻」という漢字はシキミと読み、植物のシキミの様です。シロダモの白シロは葉っぱの裏が白いから。

だいたい目的は達したので、鯨野に向かって林道を下りました。その稜線の東にあるピークには森山という山名が地形図に載っていました。595m標高点で写真のとんがりです。

林道がクランクになっていたところで、ショートカットしようと林道から外れそのまま尾根を下ると馬頭観音が転がっていました。明治18年と彫られていました。

徳間峠というのは一本南の尾根にあります。今回僕がトレースしたのは上徳間峠でした。そこは約50年前に東海自然歩道として整備された道でしたが、この馬頭観音を見て下った林道の尾根の方が主に歩かれていたのではと思いました。1900年の古地図を確かめてみるとそのことが確認できました。古地図のシュクショの青い〇が上徳間峠で、赤い〇が馬頭観音の位置です。はっきり破線で道が書かれています。


下山後、御堂の集落まで行ってみました。山梨県の南部は静岡に近く暖かいので静岡みたいな景色が広がっています。南部茶というブランドのお茶畑。

タケノコの産地でもある南部地方です。里山の景色に普通にある竹林。

帰りに通った中部横断道の、富士川第一橋から見た富士川左岸の山の斜面に驚きました。今回目的にしたミツマタの群落が橋の上から見えたのです。

上徳間黄金街道は富士川右岸の奥なので、この左岸のミツマタ群落とは違う場所です。写真を拡大して、ミツマタと思われるところを白線で囲んでみました。山梨の南部は峡南地方と言われます。富士川の少し上流に西嶋地区が手すき和紙で有名なところです。僕が見たいくつかのミツマタ群落はその西嶋和紙の原材料の供給地だったのかもしれないと思いました。

2025年3月11日火曜日

鍬柄岳

群馬県富岡市にある鍬柄岳(くわがらだけ)です。やせ尾根や岩峰が多い西上州の山の入り口の山です。登山口の駐車スペースでこの岩峰が目に飛び込んできます。この山だけではすぐ終わってしまうので、まずは、ぐんま百名山の大桁山(おおげたやま)に登って南下することにしました。


富岡市道小倉線の駐車スペースには立派な馬頭観音。大桁山の東のコルの川後石峠に至る古道の馬頭観音です。その古道とは関係なく、大桁山の登山道は「関東ふれあいの道」です。環境省が計画し、各都道府県が整備、管理している「長距離自然歩道」のひとつです。だいたい10㎞のコース設定で、公共交通機関も絡めて案内されています。長距離自然歩道の中でも有名なのが東海自然歩道です。その東海自然歩道の始まりが1970年ということなのでかなり古い歩道たちです。

関東ふれあいの道の大桁山登山コースは千平駅~大桁山~虻田バス停で設定されています。関東ふれあいの道の総延長は1,800kmもあります。関東ふれあいの道は東京都の高尾山の麓が起点で埼玉、群馬、栃木、茨城、千葉、神奈川の順に1周です。全体で150ルート以上あります。各都県の整備だし、かなり温度差もあるでしょう。

ちょうど地形図に徒歩道があり、道形も残っていたので歩いてみました。しっかりした石積みが見えます。どうして長距離自然歩道は昔からの道を利用したルート設定にならなかったのでしょう?この道形は、駐車スペースの立派な馬頭観音に通じています。


川後石峠です。4方向から林道が合流しています。地形図の606m標高点が峠です。


関東ふれあいの道は大桁山の南山腹の林道を使っています。杉檜の植林地を歩くより、素直に大桁山から東に川後石峠に延びる尾根を歩くのが合理的に思えました。その尾根の様子です。


大桁山の東尾根の途中から見えた鍬柄岳です。2つの山の標高差がだいたい200mあるので見下ろせます。


大桁山の東の790m小ピークにあった山の神の石祠。


大桁山の東の尾根を進んで、再び南の尾根から続いてきた関東ふれあいの道に合流。階段が整備された登山道ということでしょう。


大桁山山頂。展望がイマイチなので、ゆるやかな尾根を北に進んで、妙義山の展望を楽しみました。ちょうど星穴岳のむすび穴がはっきり見えました。


大桁山から尾根続きなので、そのまま南下して登場した鍬柄岳の北面です。


鍬柄岳は、「石尊山」とも呼ばれています。石尊信仰の山頂の石祠は「石尊大権現」です。石尊信仰とは神奈川県伊勢原市にある大山阿夫利神社のご神体である巨石を崇敬する信仰です。そのため登拝道として、山頂に至る岩場には鎖が設置されていました。


石尊信仰は山岳信仰と修験道的な信仰が融合した神仏習合の神で、農耕の神様として知られています。


鎖のアンカー


東西に長い鍬柄岳の山頂部です。


東の小ピークの石祠


鍬柄岳山頂と奥に大桁山です。


展望の良い鍬柄岳山頂から東を見ると、前日歩いた富岡アルプスの稜線が見下ろせました。真ん中の尾根です。


こんな感じに登ったり下ったりでした。安全を確保しての行動です。


山中多く見られたイノモトソウ 井の許草というシダです。昔はこの葉をアルコール漬けにして打撲傷の外用薬に用いられていたそうです。


登山口に戻りました。ひとつのピークに登るのに、ハーネス、ヘルメットを準備して、実際ロープを使うっていう行動はそれだけでおなか一杯になるくらい特別な山行になったのだと思います。お疲れ様でした。