2025年6月26日木曜日

蔵王山

山形蔵王に登る日。写真は数年前に米沢あたりで見えた蔵王連峰です。西から見ている形になります。左から地蔵岳、熊野岳、刈田岳、屏風岳です。なだらかな稜線のピークの同定は難しいのですが、米沢あたりから見るととても分かりやすいです。白字のサクランボとラ・フランスは畑です。なんで葉っぱも出ていないのにわかるかというと作物の特徴を理解しているからです。


蔵王山は最高峰が熊野岳ですが、主役はカルデラ湖の御釜でしょう。そこには蔵王エコーラインという山岳道路を使えば普通の観光地になってしまい容易に行くことが出来ます。もちろん天候次第ではありますが・・・そんな蔵王山の無理なく登山としても登りたいと思った今回、標高1100mのライザスキー場をスタートにしました。熊野岳1840mです。


熊野岳と刈田岳のあいだの馬の背が源頭の仙人沢に架かる仙人橋。仙人沢の右岸に中丸山を目指します。中丸山は熊野岳西に延びる稜線上のピークです。


蔵王エコーラインに振り回されることなく、普通の日帰り登山にしたくて登り始めた中丸山への登山道は、想像した通り何の華もない登山道でした。でも蔵王山の普通の日帰りルートとして当たり前なルート設定だと思います。山形蔵王の話です。ライザー中丸山ー熊野岳ー馬の背ー刈田岳ー御田ノ神―ライザ、というコースです。


雨後のガスガスで登り始めましたが、中丸山を過ぎるとみるみる青空が勝ってきました。


ミネザクラ


ムラサキヤシオ


雪国です。それなりに残雪はありましたがアイゼンが必須になるという傾斜ではありませんでした。


山頂手前のコマクサの群生。花は咲いていなくて蕾でした。ちょっと早かったんでした。


山頂への最後のトレース


逆光と難解でよくわからなかった石碑。調べたら山形出身の歌人の斎藤茂吉のものでした。「陸奥(みちのく)をふたわけざまに聳え(そびえ)たまうふ蔵王の山の雲の中に立つ」と彫られているそうです。 


熊野岳山頂。避難小屋と蔵王山神社の社殿が石積みで守られていました。


山頂避難小屋


馬の背に下る途中で見えたもう一つの熊野岳避難小屋。このころからどんどん青空が広がってきましたが、10mを越える風が強かったです。


熊野岳を下って、馬の背が始まろうかという所で崖のふち、突然目の前に飛び込んできた蔵王の御釜!本当にびっくりするくらいの劇的な景色の変化!


強風に負けないようしっかり歩を進めた馬の背。


馬の背から刈田岳に向かう途中、左側には常に御釜のミドリの湖面が見えています。五色に変化する湖面だそうで、東のピークの名前は五色岳です。


刈田岳山頂横の蔵王刈田嶺神社奥宮


刈田岳あたりから見た、御釜と熊野岳。熊野岳から馬の背を経て刈田岳に至る登山道からはずっと御釜が見えていました。基本的にはカルデラ湖ですがどんどん変化する景色が特別でした。山形の知り合いのガイドからは「持ってるね~」と言われました。地元でもなかなか見ることが出来ない御釜だそうです。


冬に一度だけ来ている蔵王です。冬のモンスターの先にあったリフトは使われていないものだと冬に思いましたが、なんとエコーラインの途中の駐車場からこのリフトを使って馬の背に来れる夏限定のリフトでした。観光客が御釜に会うためのものです。


ライザスキー場の向かう登山道を下りました。途中に御田ノ神という高層湿原があります。しっかり咲いていた北東北を代表するヒナザクラ。


ワタスゲが揺れていた高層湿原。


御田ノ神の避難小屋とチングルマの群生。


スキー場のリフトトップの様子は冬と同じでした。


スキー場の中で出会った蔵王修験のお石塔。こんな場所が二つもありましたから、蔵王山は修験の山だとよくわかりました。


快適なライザスキー場の下り


山から下りて、宿泊予定の宿に移動途中にあった道の駅に寄りました。この時期山形といえばサクランボです。購入する気満々で寄ったのですが、高すぎて挫折してしまった山形のサクランボでした。見てくれですが、まともなものは1万円~2万円もしていてとてとても手が出せませんでした。庶民が簡単に買うことが出来ない果物がサクランボなんでしょうか?厳しい現実でした。

2025年6月25日水曜日

蔵王温泉

三上さんと蔵王に行きたい!だったか?三上さん蔵王にいつでも良いから連れてって!だったか?そんなリクエストをいただいた山行でした。とてもありがたいリクエストです。合流は山形県のかみのやま温泉駅。在来線に新幹線の車両が登場するとやっぱりびっくりします。

山梨から山形へ、いろんな場所で出会う道路工事です。誘導員が持っている旗に注目です。東北では通過可能を表わす旗はミドリでした。山形県だけではありませんでした。このことも詳しくはわかりませんが、確か関東の旗は白かったような?どんな理由があるんでしょう?想像するに、一年通じて使う道具なので、白いと雪と見分けがつかないということなのでしょうか。

合流がお昼なので中途半端です。その日の午後を有効に使う目的で稜線に上がるのにロープウェイを使いました。蔵王といってもエリアは広く、おおざっぱに言えば宮城蔵王と山形蔵王ということだと思います。今回は山形からのアプローチです。


歴史のある蔵王温泉から主稜線に行くロープウェイ3本のうち、真ん中のそのまんま中央ロープウェイに乗りました。写真には撮れなかったけど、遠く安達太良山まで見えたのは良かったです。ロープウェイの上部から吾妻山方面の東のはじに見えた安達太良山でした。


乗務員のおじさんに誰かが聞いたロープウェイの定員、101名という即答だったのですが、ボディに書いてあるというおじさんの言葉を確認したら正しくでした。


1387m標高点鳥兜山下のロープウェイの山頂駅。僕は地理院地図の標高点1387mを確認して書きました。ロープウェイのトップから少し歩いて標高点に行くのでこの表記は間違っていると思いました。大した問題ではありませんが…


標高点1387mの実際。


立派なサラサドウダン 


三郎岳に行こうか?五郎岳まで足を延ばそうか?と悩みましたが、結局スキー場をぐるぐる回って、期待していなかったものに出会えたのがこの写真です。実生の初めの双葉の後の葉が大きくなっていますが、ちょっと前のはじめの双葉くらいの頃が理想なのでしょう、「ブナモヤシ」、大きくなってしまったブナモヤシの姿に初めて出会いました。食べちゃうブナの新芽がブナモヤシです。この言葉自体が憧れです、ブナの新芽をモヤシ感覚で食べちゃう食文化!


トレースもないスキー場、スキー場のような人工物は全てがトレースともいえるわけですが、すさまじいくらいのマイズルソウが咲いていました。本当に一歩を進めるのに躊躇しちゃいました。マイズルソウを踏んじゃうわけですから…


結局時間に追われ、下山も歩くことなくロープウェイでした。それでもシーズンオフのスキー場歩きはそれなりに面白かったです。


翌日の蔵王登山に備え蔵王温泉から南のライザワールドのコテージに宿を取りました。


キッチンその他自己ビルドの宿です。それでも山形の芋煮のメニューがオーダーできたので頼みました。季節はビミョーでしたけど。スキー場のコースわきで収穫したネマガリタケのタケノコがあったのでスペシャルな芋煮。芋煮とネマガリって全く相いれない季節感ではありますがスペシャルはスペシャルです。続きます。
 

2025年6月5日木曜日

Fielder vol.78

雑誌フィールダーが発売されました。今回の号に僕が登場します。西上州高立の一本岩が主役です。四月、取材依頼は地図読みと古道をからめてというものでした。一本岩周辺のいろいろなストーリーを含めて提案していった山行は、「一本岩フィールダー」というブログ記事を書いています。その時の最後に「6月発行のフィールダーが楽しみです。」と締めくくっていました。フィールダー最新号発売が今日です。


フィールダー最新号の表紙


僕の記事のタイトルが古地図山行となったのは、大正時代の五万図をベースにしたからだと思います。10年来のお付き合いで、そのころはお子さんを保育園にみたいな話だったと思いますが、今はその子も中学生だったりして本当に旧知の仲間みたいな編集部の皆さんでした。


僕の紹介が恥ずかしくなるくらいの内容で、マジお恥ずかしいくらいでした。


何度も行っている場所でしたが、今回時間の余裕があり、しかもその大正時代の五万図に「志賀越」が登場したので志賀越のルートをトレースできたのは良かったです。中央分水嶺から佐久側に延びる尾根によって、わずかなコルのどこを下るかで目的地が変わるということでたくさんの峠が存在する主稜線です。


一本岩と星穴岳の伝説が大事なので、山行が終わってからわざわざ横川に移動して撮った星穴岳の写真も載っています。


そして、星穴岳と一本岩が一直線で結ばれるポイントで、あーでもないこーでもないとじっくり撮影したシーンが下の写真です。編集部の新人君の向こうは絶対落ちたら危ない崖でした。


雑誌フィールダー78号、是非ご購入下さい。¥1,200+消費税¥120、¥1,320です!それにしても、10年前くらいは690円だったので、やはり物価高の昨今です。ロシアのウクライナ侵攻以来、紙の高騰に悩まされていると編集長から聞きました。世界はつながっています。

 

2025年6月1日日曜日

稲又谷

早川町雨畑の稲又谷に行ってきました。南アルプス白根南稜が源流の沢です。雨畑川の最大支流でとてつもない量の土砂を流出している沢です。たどり着く主稜線の向こうは静岡県の大井川です。その主稜線の所ノ沢越を目指しての入渓でした。写真は稲又谷に入ってすぐに登場する稲又第三砂防堰堤です。国内最大級の堰堤の高さは50mで、パリの凱旋門と同じ高さに該当します。ビルの高さで言えばだいたい20階建て相当です。


白根南稜の向こうの大井川には椹島があります。南アルプス南部登山のベースになるところですが、もともと椹島は林業の基地でした。むかし椹島へ物資を運ぶのに使われていた道があり「紙料道」と呼ばれていました。雨畑―所ノ沢(西沢峠)ー中ノ宿ー椹島という行程で、大正から昭和の初め頃まで使われていたようです。大井川源流は東海フォレストの社有林です。東海フォレストの前社名は東海パルプ、その前は東海紙料という社名でした。紙料道はその紙料です。


布引山から延びるフトオノ尾根南斜面につけられていたという「紙料道」。今回は稲又谷を遡行して所ノ沢越下まで行き、そこから峠への最後の道形を探そうという考えでした。写真は支流の八汐沢出合です。


下から見上げた「八潮崩れ」。南アルプス全域を代表するような大規模崩壊地です。標高差700m、幅 400m 前後の規模で大断層糸魚川-静岡構造線が通ります。


ここまでの稲又谷の川床の石は砂岩・粘板岩の細かな石が主で、まるで八潮崩れからの土砂で滝などが埋め尽くされている印象でした。八汐沢左岸の高台から見下ろした八汐沢のようす。


二俣。左が稲又谷本谷で青薙山方面に行きます。右が西沢で、今回は西沢を詰めて最後に所ノ沢越に登るわけです。


西沢に入ると普通の沢になる印象です。小さな滝や瀞などが巨岩の間に登場するという感じです。稲又谷は八汐沢の下流と上流では全く違うということです。


右の草付きから越えた5mくらいの滝。


西沢の最後には布引崩れという崩壊地があるのですが、崩壊地までは土砂の堆積が少ない普通の沢の印象だったので崩壊地も安定しているのかもしれません。八潮崩れとの比較です。


いちばん大きな13m直瀑。ロープを出して左岸を越えました。


湿った側壁にはシナノコザクラがたくさん咲いていました。


八潮崩れ


西沢上流を見て、所ノ沢越方面から流れてくる枝沢の流れが左です。ここが今回の目的の場所です。紙料道の詳細な地図はありませんが、フトオノ尾根の山腹を登ってきて所ノ沢越に行くとしたら、西沢のこの1650m周辺で沢を渡るはずなので道を見つけられるはずだとにらみました。


満開のオオカメノキ。


詳細な地図はない紙料道ですが、いくつかあった資料の中のひとつ、大正時代の紀行文、大正15年(1926年)田島勝太郎 著 昭文堂『山行記』 の中の『黄蓮の香』、~晩秋の七面山と笊ヶ嶽~(サブタイトル)という項の中に紙料道は登場していました。何年かはわかりませんが、11月21~30日、10日間の山行です。富士宮-天子ヶ嶽-身延山-赤沢村-七面山-雨畑-所ノ沢越-笊ヶ嶽-雨畑-湯島-西山温泉-鰍沢
「水を渡ると、岩石中に小さな場所を開いて荷物仲継所の建築中であつた。此處から峠になるのでこの必要があるわけだ。」という『山行記』の文中にあった中継所の石積みがありました。


峠への電光石火の道が始まると書かれていましたがよくわからなかったので、下流側を探っていたら咲いていたホテイラン。


今回発見した紙料道の一部。紙料道はありました。ここから雨畑本村に向けて望月沢や上兵部沢などの大きな支流をまたいで下り基調であった紙料道です。いくつかの資料になかには、所ノ沢越から雨畑本村まで3~4時間で下っている記録が多いのでそれなりに歩きやすい道だったのだろうと思います。


中継所石積みに戻る途中で出会ったホテイランの三姉妹。


所ノ沢越(西沢峠)。所ノ沢は大井川の支流なのでこれは静岡側の名前ですが、山梨側は西沢の乗越なので西沢峠と呼んでいました。中継所石積みから峠への道形は見つけられませんでした。それでも予定通り稲又谷から所ノ沢越に着いた時はホッとしました。


収穫のタイミングがちょっと早かったのですが、春を味わいたくてコシアブラとウインナーを炒めました。


所ノ沢越から10分くらい大井川側に下ったテント場。ここにも往時には小屋があったことでしょう。確実に水が得られる場所は貴重です。


翌日は布引山に登って笊ヶ岳の老平の一般道を下りました。布引山の急登の途中から見えた布引崩れ。


稲又谷西沢を見下ろします。奥に八潮崩れが見え、続く尾根のピークが青笹山です。手前は布引崩れのふち。


残雪のコル布引山山頂。


布引山山頂の西側は展望のためにシラビソが切られていました。


フトオノ尾根のポイントは新しめのトラロープが張られていました。尾根はまっすぐ続いていますが、ここで左に折れ枝尾根を檜横手に下るので、まっすぐ行ってはいけないよという意味です。


ヤマイワカガミがきれいでした。


奥沢谷の広河原の渡渉点


広河原から老平までの簡単ではない登山道はいつも通りという感じでした。


老平に着きました。