ブナ平の先で登場した新雪。
荒菅沢にいったん下って見上げる布団菱の岩壁。
正面に堂津山、その左奥に乙妻山と高妻山、一番左が登山道のない地蔵山、堂津山の右奥が西岳、右端に中西山と東山。
笹平の奥に雨飾山山頂。
山梨の地元ガイド三上浩文のブログです
妙義神社総門。妙義神社は妙義山信仰の中心です。また、妙義修験と呼ばれる山岳信仰の場でもあります。
古い火山の妙義山、凝灰岩や安山岩が侵食で礫がボコボコした特徴のある表面です。その岩の石段がとても珍しいと思いました。ボコボコ礫が残ったままの石段です。
日光東照宮の彫刻師が彫り上げたと言われている見事な彫刻に飾られた本殿。ここが中間道といわれる登山道の始まりです。
中間道は「関東ふれあいの道」です。環境省が計画し、各都道府県が整備、管理している「長距離自然歩道」のひとつです。だいたい10㎞のコース設定で、公共交通機関も絡めて案内されていて、中間道は「さくらの里と石門のみち」とされていました。
難易度が高い主稜線岩稜と、車道の県道の中間に続く中間道は妙義神社と中之岳神社を繋ぐ道。わりと新しめの標識はにこちゃんマークで三段階の難易度を示していました。
妙義山というピークはありません。碓井川支流中木川をはさんで北側が裏妙義と呼ばれ、今回行ったのは表妙義と呼ばれるエリア。白雲山・金洞山・金鶏山と分かれていて、写真は白雲山エリアで一番高い相馬岳1103.9m(右のピーク)です。
両側が切れたヤセ尾根の長い手すりのついた階段。
岩壁の基部がえぐれた登山道。ちょうどこの辺りの上の稜線にあるのが「鷹戻し」という有名な鎖場です。ひさしの登山道の先に中間道の最高地点があり(約910m)、感覚的にはコルなのですが、尾根は東側に延び、一本杉(七曲峠)、筆頭岩、金鶏山と繋がっています。最高地点からは中之岳神社への下りとなります。
石門巡りコースの始まりは天狗のひょうてい。
足場も刻んであるしステンレスの鎖も設置されています。
右のまあるいのが鏡岩。丸い手鏡の形を連想してのネーミングでしょう。後で知るのですが、なんとあのウォルター・ウェストン初登だそうです。
胎内くぐり
石門巡りの初めは第四石門。巨大な穴の向こうに大砲岩が見えています。
マップもありましたが、実際の地形が表現されていないので分かりづらいです。
第三石門はわかりませんでした。第二石門は鎖を登って穴の向こうを下ります。
第二石門。つるべさがりを登り、たてばりを下り、カニの横ばいをトラバース。
第一石門
石門巡りの入り口は群馬県道196号線。
筆頭岩。これもウォルター・ウェストン初登だそうです。
杉の木は写っていませんが、一本杉(七曲峠)と呼ばれている峠です。
車を停めた道の駅みょうぎに戻らなければならないので県道196号を歩くつもりだったのですが、なんと古い道が残っていました。妙義神社と中之岳神社を結ぶ古道です。
大人場おにんばは広い平。
富岡市妙義ビジターセンター。元々は美術館だったようですが、1925年(大正14年)日本の名勝地に指定された100年後、2023年8月11日(なんと山の日!)のビジターセンターになったとのことでした。
こちらも有名な写真で、上高地の河童橋です。ウォルター・ウェストン夫妻と嘉門次、笠を被って座っているのが根本清蔵です。根本清蔵は農業の傍ら妙義山の案内をしていて、ウェストンがやって来た時、筆頭岩と鏡岩を登ったということでした。筆頭岩ではウェストンの教えで初めてザイル(ロープ)を使ったということで、ここ妙義山は『日本の近代登山発祥の地』と言われます。ウエストンは根本清蔵の登攀能力や段取りの良さにとても信頼し、一緒に様々な山に登ったということでした。だいたい嘉門次60代、ウェストン50代、根本清蔵30代という年齢だったようです。ウォルター・ウェストンのザイルパートナーは根本清蔵だったようです。明治から大正にかけ交通網が発達していって、彼らの行動範囲も広がったのでしょう。
集合場所の赤石温泉白樺荘はいつの間にか畑薙荘と名前が変わっていました。白樺荘だとどこにでもありそうな名前なので、こっちの方が特定しやすいと思った畑薙荘。
大井川支流東河内左岸の尾根。最近は里へ、というか市街地へのクマの出没がいろんな被害を生んでいますが、ここは正しく彼らが住む場所です。
筑波大学の演習林です。遠目から見てもナラ枯れが目立っていた森です。調査なのか研究なのか、ナラの木の根元に巻かれたゴキブリホイホイのような粘着シート。アオゲラが張り付いてしまったのでしょう、アオゲラの羽がきれいでした。
把握しやすい尾根上のポイントにはずっと前から捕獲檻が置かれたままになっています。
トリカブト
傾斜がなくなり平坦になると巨木が目立つようになります。鹿ノ子池近いことを知らせてくれる森です。