2026年3月30日月曜日

上徳間の黄金街道

南部のミツマタ大群生地に行ってきました。タケノコがシンボルの道の駅とみざわが起点。国道52号線沿いの道の駅の名前は、合併して町名が変わる前の富沢町の名を冠しています。

国道から福士川に入り、支流の有東川の奥、鯨野から入ります。桜が満開でした。

林道途中に車を停め歩きはじめ、東海自然歩道に入ります。鯨野と上徳間を結ぶ林道は、篠井山から南に延びる尾根が方向を変え、東向きになったところを通ります。その尾根の上にミツマタがたくさん生えていて、花が咲くころ黄色になるというところからの黄金街道です。

峠に向かう東海自然歩道はロープが設置されているようなところもある急な道です。

上徳間峠、稜線に上がりました。林道のミツマタは通行に邪魔になるということで切られてしまっています。切られていなければ正しく黄金街道と感じるでしょう。また生えると思いますけどね。


上徳間峠から西に、上徳間の方に1kmくらい林道を進んで登場するミツマタの大群生地。

大群生地の中に入ってみました。黄色のまあるいミツマタの花は、咲き終わりにかけて黄色が褪せていきます。少し遅かったと思ったし、空の青さも欲しかったという本音です。

山梨県のHPにやまなしの偉人というページがあり、その中にこの地域にミツマタがたくさんある理由のひとつだろうという人物を見つけました。     以下、山梨県HPより

「近藤喜則こんどうよしのり 1832(天保3)-1901(明治34)年 ちなみに明治元年は1868年です。」

「近代日本の黎明期に民衆の教育の必要性に気付き私塾 「蒙軒学舎もうけんがくしゃ」 を設立した近藤喜則。先進的な人間教育を実践するとともにミツマタ栽培の普及など殖産興業にも努め峡南地域の発展に力を尽くした。」

近藤家は南部宿の本陣を務めた名家で、近藤喜則はのちの初代県議会議長でもありました。南部という土地は鎌倉時代の南部氏の本拠地で、後に青森・岩手などの北東北へ拠点を移した南部氏のルーツの地です。

「また、近藤喜則は、 富士川沿岸のやせ地にミツマタ(紙の原料)栽培を広め、1875 (明治8) 年に大蔵省へ紙幣用のミツマタを納める契約を結んだ。その翌年には多額の資本金を出資して「殖産社」 を設立。ミツマタ栽培の普及や品質改良に努めるなど、地元農家の経済を潤すため、 無給で奔走した。」

南部町の北には身延町の西嶋和紙や、市川三郷町の市川和紙という和紙の産地があり、供給と需要のバランスが取れたのかもしれません。

奥山温泉に向かう道路からよく見えるミツマタの大群生地です。


翌日は山梨百名山のひとつ、篠井山に登りました。


西の尾根から周回して、よく整備された一般登山道を下りました。多くの滝を見ることが出来る渓谷沿いの登山道はハナネコノメが盛りでした。


2026年3月22日日曜日

じいとばあ

国道254線を内山トンネルから山あいのカーブを回りながら下って、軽井沢への交差点を過ぎると見える“じいとばあ”。国道沿いのじいとばあ食堂のあたりからよく見えます。やっと実現したじいとばあの山行でした。正式にはじじ岩とばば岩でしょうか。左のピークは御堂山です。


中山道の脇往還としてにぎわった姫街道、街道の関所だった西牧関所跡が登山口です。


「この石は幕吏や名主が被疑者をこの上に坐らせて取調べをしたと云われ、泣き石と称せられたそうである。」という説明。


山としては御堂山です。群馬百名山とのことですが、西上州の山なので難易度は高いと思います。ヤセ尾根や急斜面、岩のセクションなんかが続々登場する西上州の山々。


夏このエリアに来る人はそんなにいないとは思います。まだ寒い時期なので心配はいらないヤマビルです。


しばらく歩いた林道が終わって、登山道に入って登場する枯れた滝。ロープが設置されています。


ロープを張りました。設置されたロープは鉛直方向で、その方向に行ってしまうとより難しいラインに入ってしまうので、登る補助として赤いロープを使うという意図ではなく、登るラインを指し示すという感じでした。


じじばば分岐。じじとばば岩により道です。


 ヤセ尾根。


岩の付根を登ったり下ったり。ここで落ちたら...というところにはフィックスロープを張りました。


逆光のじじ岩とばば岩。


ばば岩の付根までクライムダウン。



素晴らしい展望でした。荒海を進む船に見立てる荒船山が良く見えました。その横には兜岩山、その手前、ほぼ中央に物語山。物語山には1日目に登りました。


樹間にじいとばあ。


東の枝尾根のじいとばあの展望台へ移動。ワンポイントで120㎝のスリングを使いました。


展望台から見たじいとばあ。真ん中の岩峰がじいで、右の岩のこたつにあたっていて、左の岩峰のばあがお茶を運んでいるところだそうです。こんな見立てもあって、じいとばあの家族が荒船山の出港を見送っているところ。


御堂山への急登。地面がとても乾燥していて土埃がひどかったです。登山道からピストンの山頂ですが、かなり神経を使う荒れた登山道でした。


御堂山山頂878.4m


御堂山から高石峠へと周回。御堂山西からはあまり歩かれていないのか、それまでの濃いくらいの案内がすっかりなくなって、複雑な地形も相まって難易度が上がりました。高石峠への最後のピークからの下り、トラロープが設置されていましたがフィックスロープを張りました。トラロープは支点の木に結ばれ、垂れ下がっているだけですが、正しい高さのフィックスロープはかなりの補助になると改めて実感しました。そう感じさせたのはスムーズな通過からでした。


高石峠から根小屋集落へ下りは注意が必要です。峠からは写真のようなはっきりした峠道が残っていました。そんな古道の登場に嬉しくなったのですが...


すぐに伐採、造林の古い作業道になり、広々した伐採後に出ます。あ~終わった、古い作業道をのんびり下れば集落に出る~とはなりませんでした。


9年前の下仁田町森林組合の作業だったのでしょう。作業道は「峠下線」となっていました。


そのサインの先で林道は広場になっています。地図の530m標高点の東です。どうもその先で林道は沢から離れて伸びていくようでした。林道わきにあった山の神の石祠が目印です。沢の右岸にありますがそこから沢床に入っていくイメージです。古い堰堤が3つくらい出てくるのは全て右岸からパスしました。


途中で古い林道が出てきますが、使えるものは使った上で、徒歩道は地図通りだと考えれば良いと思います。


ここまでくれば根小屋集落もすぐです。


下りながら馬頭観音があったりしました。根小屋集落に出るとあった道しるべ。
 右 中之嶽を経て妙義町」と彫られていました。高石峠の峠道は妙義に行く道だったのでしょう。そういう古道はたくさんありますが、高石峠の道の途中は伐採、造林で残念なことになっていました。


前の日に登った物語山と右下にメンべ岩が見えました。


上州姫街道 本宿(もとじゅく)中山道の脇往還の姫街道は碓氷峠に比べ平坦で険しいところが少なかったので、女性でも比較的楽に歩けたというところからきています。その宿場町の雰囲気を残す本宿を最後に歩きました。


2026年2月20日金曜日

日本坂

日本平はなんで日本?とか、日本坂ってなんで日本? 今月のはじめ、普通のガイド登山とはちょっと違う内容の山行をした2日間でした。観光地として有名な日本平に歩いて登って、静岡市内のホテルに泊まった翌朝、静岡県民以外は知らない天神屋さんでお昼を購入して始まった静岡市2日目の目的地は日本坂でした。


南安倍川橋から見た正面の満観峰。左に花沢山です。
「日本平はその昔、日本武尊が東征の際、草薙の原で野火の難にあい賊を平定した後、この山の頂上に登り四方を眺めたところからこの名で呼ばれるようになったといわれています。」
                              日本平・久能山観光協会


では日本坂は?「日本神話における景行天皇の時代に、焼津に上陸した日本武尊がこの峠道を越えて東征に向かったという伝承からと言われている。(310年の頃のおはなし)
東海道線用宗駅からスタート。ちなみに用宗(もちむね)はかつては「持舟(もちふね)」と呼ばれ、今川氏や武田氏、徳川家康ゆかりの「持舟城」があった場所です。東海道線の踏切の名前も用宗でした。


これは紅梅


小坂(おさか)集落に入ったところに登場する「御所の前」の石碑。碑文の文字起こし。

 【七(7)世紀中期頃、大和朝廷は、西は九州、東は陸奥の一部を統一支配し、遣隋使、遣唐使の派遣により大陸の先進文物制度を摂取し、中央集権国家の確立と、諸国に通ずる交通路の整備を図り、「大化」と初めて年号を制定した。世に言う大化改新(六四五645)である。
 大和の都から遠く陸奥国に通ずる最古の東海道は、大化二(2)年の駅伝制のにより、駅馬、伝馬の制度が設けられるようになった。万葉の道、駅馬の道とも言われ、野越え山越えの狭隘な道が延々と続いていた。最古の東路が高草山の何処を通っていたかについては、初倉駅小河駅日本坂手児の呼坂横田駅が考えられる。海抜三〇二302米の日本坂越えの道は急峻であり、花沢から大崩海岸の平坦な通路も利用したものと思われる。この坂越しの道と大崩街道の合流点が、倭建命の伝承の地、小坂小字御所の前であり、往時の交通の要衝の地であった。万葉人の苦難の旅路が今に偲ばれる貴重な史跡である。

 陸奥―陸奥国(むつのくに)は、かつて存在した令制国の一つ。東山道に属する。現在の福島県、宮城県、岩手県、青森県と秋田県の一部(鹿角郡)。等級区分で大国の一つ。

遣隋使、遣唐使―遣隋使(600-614年頃)と遣唐使(630-894年)は、日本が中国の先進的な制度・文化を吸収するために派遣した公式使節

大化改新—中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と中臣鎌足(なかとみのかまたり)が蘇我氏を倒し(乙巳の変)、唐の制度を手本に天皇中心の中央集権国家を目指した古代の政治改革

—ショウ・みことのり。天皇のことば。「詔書」「詔勅」

狭隘―きょうあい・せまいこと。

倭建命―『日本書紀』では主に「日本武尊(やまとたけるのみこと)」、
     『古事記』では主に「倭建命(やまとたけるのみこと)」と表記される。
     現在では、漢字表記の場合に一般には「日本武尊」の用字が通用される。


初倉—島田市大井川右岸 小河—焼津市国道150号 日本坂―日本坂峠
   手児の呼坂―安倍川橋右岸  横田―駿府城の東
「御所の前」に登場するこれらの地名を結ぶと古代官道・東海道の一部が見えてきます。


ちょっと困ったことに、とんでもない日に来てしまった...満観峰の先で500~600人のランナーとすれ違うことになりました...


峠に登る古道の石積みは、耕作放棄されたお茶畑です。


日本坂峠  南の花沢の里に峠道は下っていました。


前日歩いた日本平がはっきりと見えました。


峠からは稜線歩き。いくつかの小ピークを登って下って満観峰です。それにしてもこんな階段、ちょっとへこみます。


満観峰


すごく人気の山で広々しています。残念ながら富士山は雲の中。


イベント用のテントが張られた満観峰山頂、次々とやってくるトレイルランナー。エイドステーション(給水所)というのでしょうか、テントです。


ベンチのある「蔦の細道」も峠です。日本坂のあとの平安時代、古代東海道にあった小川駅が廃止されたことに伴い、それまで太平洋側にある日本坂を通過していた交通が宇津ノ谷の蔦の細道へと移りました。小川は小河で今の焼津駅の近くです。


国道1号宇津ノ谷峠トンネル関連の建物。この稜線の下にはトンネルが4本も通っています。東から平成のトンネル、昭和のトンネル、明治のトンネル、大正のトンネルです。


この日の目的は日本坂から蔦の細道を経て宇津ノ谷峠まで歩くというものでした。最も古い東海道の峠越えの日本坂から時代を下って、蔦の細道、宇津ノ谷峠を経て明治のトンネルを岡部宿から丸子(まりこ)宿に歩きました。しかしそれにしても稜線から明治のトンネルに行くまでの道は難しかった!車の通行は出来ない明治のトンネルです。


明治のトンネルから風情のある宇津ノ谷集落を経て国道1号に出てきました。丸子側です。右が昭和のトンネルの出口、左が平成のトンネルの入り口です。


静岡駅で無事解散し、車を走らせて山梨に戻ります。途中なんと静岡なのに吹雪になりました。雪が積もったのは驚きました。最近の気候の変化は激しいです。