2026年9月27日日曜日

六百山

上高地バスターミナルです。建物の奥に見えている岩がゴリラ岩。西に向いたゴリラ似の横顔です。その手前の沢を詰めて六百山に登ってきました。標高差は約950m。河童橋のトイレの裏から登るということで有名な上高地の裏山です。実際には「山と共に」という山の日(8月11日)制定記念の碑の横から取付きました。

沢を詰めていきます。中畠沢という名前らしいです。河童橋のトイレ辺りから入るガラガラの沢です。こんなところで大規模な崩落があれば大惨事です。バスターミナルから河童橋の間なので上高地に来る全ての人が通る場所。そのための対策なのでしょう、巨大なコンクリートの堤防などがあり、どこをどう歩いていいかわからないくらいの出だしです。写真は二俣で標高1770mです。上高地の標高は1500mです。ルートを右に取ります。

上高地は標高1500mです。六百山の標高は2450m。写真は奥ノ二俣、標高1850mです。ここも右に行きますが、目の前の地形が分かりづらく、どういうラインで行けばいいか難しかったです。地形図で表現すると。六百山から北西に延びる八右衛門沢左俣を分ける尾根の2200m等高線のコル状に上がるのが当座の目標になります。なので、二俣とか奥ノ二俣では右にルートを取ることになります。とにかく、山頂から北西に延びる尾根に乗っかることです。

ガラガラの岩の沢を登ります。


全ての岩が動きます。足を置けば動いてしまうので体重移動がままなりません。ガラガラと崩れてしまう足元です。登りにしても下りにしても精神的にも厳しいです。

具体的な名前はわからないキイチゴ。ラズベリーのような味わいでとてもおいしいものでした。


六百山から南西に延びる尾根の標高2200m地点のコメツガの切株。人為的に切られた切株だし、沢から尾根に乗っかるという意味が分かる人は必ず目にするであろう切株です。ここから植生がハイマツが登場したりして変わります。

尾根に上がったら絶対押さえておきたい標高2250mの場所。意外に左側の中畠沢側が崩れていて、等高線ほどの平坦地にはなっていませんでしたが、平らであることはわかる場所です。

霞沢岳が見えました。とてつもなく遠くに思えました。

8mくらいの岩のセクション。ここはロープがフィックスされていました。草付きの足場もしっかりしていました。帰りは懸垂下降でした。

六百山山頂。ここまでハイマツの中にわかりやすいトレースがありやぶこぎはありません。前穂から奥穂の吊尾根が目の前でした。

下りです。何度か書いた六百山山頂から南西に延びる尾根がわかります。尾根の向こうは八右衛門沢です。手前のハイマツの次にダケカンバが見え、その下に針葉樹の小ピークがいくつか見えます。一番手前の小ピークが標高2200mの痩せた平坦部です。

下りながら見えた西穂の稜線。写真の左に西穂山荘の屋根が見えた様でした。

北西に延びる尾根から岩くずだらけの沢を下り、上高地に出る手前はやはりルート取りに苦労しました。コンクリートの塊の防護壁や、こんな落石防止柵が登場しました。どうルート取りをするかは周りをよく見ることだと思います。


ちゃんと「山と共に」の山の碑制定の記念碑の横に出ました。

ガイド協会のアルプス山荘の夕食には十分間に合いました。六百山の登ってヘロヘロになって泊まったアルプス山荘でした。


翌日は雨。予定を変更して美ヶ原の桜清水茶屋さんに挨拶兼ねて昼食。

大好きなキノコ汁をいただきました。今年のきのこは大豊作みたいです。

徳本峠

上高地への峠みち、徳本峠(とくごうとうげ)に行ってきました。道としては信州と飛騨を結ぶ道で、焼岳の北の中尾峠に通じています。徳本峠と中尾峠の間に上高地があります。日本の登山史にたくさん登場する徳本峠です。長いルートなので現在の出発地点、島々の宿に前泊しました。島々山荘は集落の古民家を活用した登山者向けの宿です。

梓川の支流、島々谷川の林道歩いて二俣を目指します。夜明け直前まで降っていた雨でかなりウエットでした。


僕は山梨県民なので詳しくはありませんが、長野の山で時々出くわす「止め山」という言葉。その止め山が詳しく説明されていました。島々谷きのこ組合の組合員以外は勝手に野生のきのこを採ってはいけないということです。

ゲートがあるにもかかわらず、まだ暗いうちに越して行った軽トラが停まっていました。きのこ採りか、きのこ採りの監視かだと思いました。


その先の右岸で通行止め。土砂崩れでそこから先に車は入れません。この崩れはだいぶ前のものでしょう。崩れの先の林道は半分自然に帰っていました。


島々谷川二俣。林道途中にある発電所に水を送る取水口です。


島々谷川二俣で北沢と南沢に分かれます。流れの合流点が見える場所に行くと道しるべがありました。写真の石です。右~~~、左~~~書かれた言葉はわかりませんでしたが左右はわかりました。北沢方面には基礎があったので、吊り橋があったんだろうなと思いました。


徳本峠への登山道は南沢です。二俣までは林道です。南沢入ると古い峠道の風情でした。


本流には立派な橋が架かっています。これは「行き橋」。地形図を見ると徒歩道が本流を渡って対岸に行く様子がわかります。橋の記号は書いていないけど、本流を渡る場合は必ず橋があります。そこで現在地がわかります。


橋や木道で補強された道ですが、かなり滑ります。


ざらついたテープが施されていますが、いかんせん小さく、とにかく滑ります。


右岸の下女沢を過ぎて登場する崩れ。ここ何年にもわたって開通、復活、通行止めを繰り返していた場所です。山側を大高巻きのルートが整備されているようですが、島々山荘の方に教えていただいた通りトラロープをくぐって真っすぐ行きました。


写真ではわかりませんが、しっかりしたステップと、硬い岩には鎖が設置されていました。歩いていないからわかりませんが、大高巻きは大変だと思います。


南沢本流には橋が架けられていますが、枝沢は渡渉になります。


こんな石積みが所々で見られます。日本アルプスの名付け親、ウィリアム・ゴーランド(ガウランド)が明治10年のここを通って槍ヶ岳に向かっています。W・ウェストンは10回以上通ったとされています。彼らも見た石積みでしょう。


右岸の瀬戸沢手前の橋、下瀬戸橋。


右岸のワサビ沢手前は地形図からは平和な道だろうと想像していましたが、そうでもなくて木道が続きましたが、やはりとても滑ります。


この橋を右岸から左岸に渡ると中間点の岩魚留小屋です。


岩魚留小屋は1891年(明治24年)に建築されたといわれ、当時のままの建物が残っているわけです。大カツラの木が見守っているようでした。中には入れません。


なぜか僕のザックにとまったキタテハ。なぜか何頭もやってきました。


翅(はね)を閉じたキタテハ。まるで枯れ葉のようです。


岩魚留小屋を過ぎると道の整備が少し薄くなると思いました。目的地はあくまで上高地なので、徳本峠の先の明神という地名も道標には入ります。


南沢が最後、本谷と峠沢に分かれるあたり、本谷に架けられた橋。この橋を渡った後は徳本峠への最後のつづれ折りの道になります。


はっきりした峠道。


徳本峠小屋。大正12年(1923年)の建物は登録有形文化財(建造物)です。


翌朝、多くの岳人が見てきた穂高連峰の絶景を徳本峠から見ることが出来ました。


明神分岐。江戸時代前期に始まった松本藩による木材伐採が上高地開発の始まりとされています。元禄時代(1688年から1704年)には既に田代、明神、徳沢、横尾ほか12ヶ所にキコリ小屋があり、明神(徳郷→徳本)に常駐する藩役人が木材の検閲を行っていた記録が残ります。江戸時代末期には上高地温泉が発見され現在のサービス業の下地ができました。明治18年には上高地牧場が始まり約50年、春と秋に牛馬が徳本峠を越え、多いときは400頭もの牛馬が上高地にいたそうです。釜トンネルの通行が始まる昭和8年(1933年)まで上高地への道という大役を終えた徳本峠でしょう。


河童橋と焼岳

2026年9月11日金曜日

針ノ木峠越え

信濃大町から針ノ木峠を越え黒部川を渡り越中富山に通じる古道、針ノ木谷に行きました。
戦国時代、富山城主の佐々成政(さっさなりまさ)のさらさら越えという、冬の峠越えという伝説で有名な峠です。佐々成政の伝説のルートは、今は立ち入り禁止の立山カルデラの中にあった立山温泉から獅子岳と五色ヶ原の鞍部のザラ峠を越え、黒部川に下り平ノ渡しを渡り、針ノ木谷から針ノ木峠を越え大町に下るというものですが、信濃大町の扇沢から黒部川までさらさら越えの半分、針ノ木谷でも歩いてみようということでした。

多くの観光客でにぎわう扇沢駅の横から入る登山道は草刈りが済んだ直後でありがたかったです。

途中の大沢小屋の営業はお盆までということでした。今では泊まりで利用することはほとんどないであろう小屋ですが、アルペンルートが出来る前、大町から歩いてきた昔はまずここに泊まる人が多かったようです。

リョウブの花が盛り

針ノ木雪渓にはもはや雪はありませんでした。"ノド”と呼ばれる最狭部。右壁に鎖が設置されていました。ちなみに日本三大雪渓というのがあって、剱沢、白馬大雪渓、そして針ノ木雪渓ということですが、どれも夏が進むと雪がなくなり苦労する昨今ですし、立ち入り禁止なんてことも頻繁です。

なんどもなんども手の入ったザレたつづれ折りの登山道。


針ノ木峠、日本三大峠と言われます。奥秩父の雁坂峠、南アルプスの三伏峠、そして針ノ木峠です。


針ノ木小屋で遅めの昼食。ラーメンを注文して水一杯くださいと言ったら水は有料と言われました。水のない稜線の小屋です。


針ノ木谷へ下る道は針ノ木小屋の南についていました。


針ノ木小屋からしばらくはジグザグに下りました。しっかり道形は残っていて、道を補強するための古い石積みや、最近の土留めや丸太の階段もあり歩きやすかったのですが、やはりここに入る人は少ないんだろうと感じました。道はやがて沢の河原状に吸収され水流に沿って下って行きました。そのタイミングで持参した沢靴に履き替えました。


小滝がいくつか登場しますが、写真のフィックスロープの滝が少し厳しかった。


針ノ木谷出合。いくつかのサインがありました。


渡渉をかさねながら下った針ノ木谷。写真ではわかりにくいですが船窪沢出合の登山道分岐です。船窪乗越に行く入り口です。急峻な尾根を七倉岳を経て船窪小屋に通じています。後で知ったのですが船窪沢出合から針ノ木谷南沢出合までは船窪小屋のボランティアの方が手を入れているそうです。船窪沢出合から上、針ノ木峠までは針ノ木小屋の担当みたいです。


ツエルトを張りました。


翌朝の朝焼け


船窪小屋による針ノ木谷の整備の情報は得ていたので、思った通りそこからの針ノ木谷のマーキングは濃くなりました。それでも普通の登山道ではないとも思いました。


一瞬、越中沢岳が見えたあたり、標高1,750m辺りで右岸の樹林帯の巻き道に入ります。長い巻き道です。開けた枝沢の出入りには注意深いピンクテープ、マーキングは単純ではないので上下左右キョロキョロしなくてはなりません。


あまり歩かれていないわけですが、こんな倒木処理も見かけました。


整備が入ったばかりのタイミングだったのでしょう。コナラの枝


南沢出合のトラロープが設置された渡渉点


渡ってすぐに確認できる南沢出合の赤いペイント


この丸太橋を渡って針ノ木谷左岸の道になります。渡渉が終わるので沢靴を脱いで登山靴に履き替えました。これも後で知ったのですが、ここから下流は関西電力の管理になって道の整備状況が一変して良くなります。


平坦な広い河原から見えたのは左が龍王岳、右が立山雄山です。2つのピークの間にあるであろう一ノ越は見えません。


丸太橋が黒部を感じます。


こんな石段を見ると「針ノ木古道」と頭をよぎります。


有名な避難小屋


平の渡しまで来ました。8時台の便があると思い込んでいたのが間違いで、2時間も待ってしまいました。


船着き場までは等高線3~4本分は下ります。


整備ための部材がところどころに集められていました。丸太の橋や階段は慣れないと怖い思いを抱くかもしれませんが、とても優れたものだと思います。ほぼ全てに手すりが付けられているのもありがたいです。


丸太と番線で自由自在に作られていることにしきりに感心しました。


とはいっても注意して歩かなくては…


船着き場


平の渡しの渡船は無料です。
「平の渡船は黒部川第四発電所(黒四ダム)の建設に伴い、黒部ダム湛水により水没する針ノ木谷~ヌクイ谷(平ノ小屋あたり)間の吊橋の代替のため、一般登山客が利用する無料渡船を設けることが国(当時の厚生省。現在は環境省)の許可条件とされた  黒部ダムHP」ダム建設の条件が、もともとあった吊り橋の利用者の利便を妨げてはならないという条件があったために無料で利用できるわけです。針ノ木谷南沢出合までもこの条件に該当するのでしょう。平ノ小屋から黒四ダムまでの登山道も同じ条件に該当します。


ライフジャケットの装着と名簿の記入が求められました。


船上からの黒部湖の様子



対岸までは5分くらいであっという間です。黒四ダムが出来る前は吊り橋が架かっていたそうです。ダム湖が出来る前は中ノ廊下と呼ばれていたそうで、山で廊下と言えば両岸が切り立った岸壁なわけですから、その廊下の弱点が平の渡しだったのでしょう。下ノ廊下と上ノ廊下は現在でも地名として残っています。


丸太の階段の後に登場するコンクリートの階段。すっげー急でした。手すりはありません。


平ノ小屋、ここでいろんなお話を聞けました。


黒部川左岸の登山道。写真はかなり平和な感じですが、枝沢や崩壊地を通過するための上り下りが多く、精神的に堪える道です。


丸太梯子や桟橋が登場します。


オオカメノキの赤い実


黒四ダムからトロリーバスで扇沢に戻りました。