国道から福士川に入り、支流の有東川の奥、鯨野から入ります。桜が満開でした。
林道途中に車を停め歩きはじめ、東海自然歩道に入ります。鯨野と上徳間を結ぶ林道は、篠井山から南に延びる尾根が方向を変え、東向きになったところを通ります。その尾根の上にミツマタがたくさん生えていて、花が咲くころ黄色になるというところからの黄金街道です。
峠に向かう東海自然歩道はロープが設置されているようなところもある急な道です。
上徳間峠、稜線に上がりました。林道のミツマタは通行に邪魔になるということで切られてしまっています。切られていなければ正しく黄金街道と感じるでしょう。また生えると思いますけどね。
大群生地の中に入ってみました。黄色のまあるいミツマタの花は、咲き終わりにかけて黄色が褪せていきます。少し遅かったと思ったし、空の青さも欲しかったという本音です。
山梨県のHPにやまなしの偉人というページがあり、その中にこの地域にミツマタがたくさんある理由のひとつだろうという人物を見つけました。 以下、山梨県HPより
「近藤喜則こんどうよしのり 1832(天保3年)-1901(明治34)年 ちなみに明治元年は1868年です。」
「近代日本の黎明期に民衆の教育の必要性に気付き私塾 「蒙軒学舎もうけんがくしゃ」 を設立した近藤喜則。先進的な人間教育を実践するとともにミツマタ栽培の普及など殖産興業にも努め峡南地域の発展に力を尽くした。」
近藤家は南部宿の本陣を務めた名家で、近藤喜則はのちの初代県議会議長でもありました。南部という土地は鎌倉時代の南部氏の本拠地で、後に青森・岩手などの北東北へ拠点を移した南部氏のルーツの地です。
「また、近藤喜則は、 富士川沿岸のやせ地にミツマタ(紙の原料)栽培を広め、1875 (明治8) 年に大蔵省へ紙幣用のミツマタを納める契約を結んだ。その翌年には多額の資本金を出資して「殖産社」
を設立。ミツマタ栽培の普及や品質改良に努めるなど、地元農家の経済を潤すため、 無給で奔走した。」
南部町の北には身延町の西嶋和紙や、市川三郷町の市川和紙という和紙の産地があり、供給と需要のバランスが取れたのかもしれません。
奥山温泉に向かう道路からよく見えるミツマタの大群生地です。
翌日は山梨百名山のひとつ、篠井山に登りました。





























































