2023年4月30日日曜日

八風山

先週の佐久の山の2日目は八風山。自分自身忘れないようにブロブ記事を書くわけですが、特に難しいわけでもないルートなんですが、調べるうちにいろんなストーリーがあって、僕自身がとても楽しめた山行になりました。
佐久香坂の長野県道138号香坂中込線を東に登りぶつかったところに車を駐車。荒船山から八風山を結ぶ中央分水嶺のほぼ稜線上です。ぶつかった道はかつての「妙義荒船スーパー林道」で有料道路でした。

実際に歩いたルートの地図を載せておきます。🄿マークから反時計回りに周回しました。

正面が林道歩きで登場する香坂山遺跡。上信越自動車八風山トンネル通気口のすぐ横です。

笹が不自然に刈られているのですぐにわかります。香坂山遺跡で出土した旧石器時代の石器「大型石刃」が、石刃として国内最古となる3万6800年前のものであることが、遺跡を発掘した奈良文化財研究所の国武貞克考古第一研究室長の研究で明らかになりました。2021年5月23日、日本考古学協会の総会でオンライン発表しました。埋め戻されているので見ることはできませんが…

香坂山遺跡から地図読みで、香坂川源流部に下りました。カラマツの植林地の足元にはサクラソウがたくさん咲いていました。


古い重量制限の道路標識。ここは香坂川に橋が架かっていたところ。車が走ったんだと思います。この廃道は神津牧場に通じる香坂峠越えには行かず、この後すぐに矢川峠の方に行きます。

矢川峠への廃道と別れてすぐに、足元に転がっていた石を起こしてみると、なんと馬頭観音でした!自分たちの歩いているのが正しく香坂峠の古道だという証明みたいなものでした。

何度も小さな沢を渡りました。

大正四年の陸地測量部の地図と古い道形を頼りに進みました。宿で学習した資料には渋沢栄一が登場しました。渋沢栄一の資料の中に香坂峠遭難体験のようなインタビュー記事。「香坂峠と渋沢栄一」という記事の続きの実際です。文久元年(1861年)くらいの話です。

雨夜譚会談話筆記   昭和2年11月

先生が青年時代に信州へ旅行された時、峠の一軒家に詮方なく宿泊されたに就いて

『これは覚えてゐるヨ。 上州から信州に越えるには峠が幾つもあつもあったヨ。その主なものが、碓氷峠その南に香坂峠、 志賀峠、内山峠、戸沢峠と順に南の方に在った。あの時は私が二十一か二の年だったと思ふ。大雪が降る日で、その為に時間を思い違へてしまってネ、まだ早いだろうと思って、実は上州に泊まればよかつたのを今一息だ、折角だから香坂峠を越えようとさきへ行った。あの時に一人だった。峠を登る時分はまだ明るくてよかったが、下りかけると大変な雪で道がわからなくなった。 吹雪ではなかったが積雪で道が覆われて仕舞った。一本道で雪さへなかったら、迷うような事はなかったのだが、何分人が通った跡はなし、それに曲りくねった道で曲り角へ行くと見当がつかずに、真直ぐ行って仕舞うものだから、ぼくりと落ち込む。そんな時は大抵の人が焦るものださうだ。さうすると何度もそんな事を繰り返して元気がなくなって、参ってしまうふさうだ。私もあの時ばかりはこれは駄目だ、死んで仕舞はせぬかと真に心細くなった。三度か雪に体がはまってへとへとになって、ようやく草鞋を売る家に辿り着いたヨ。此家は香坂の村にまだはいらない山ぎわにあった。何でも小さな家で、老人夫婦が居つたヨ。 私が『実は上州の方から峠を越えて来たが、雪でひどいめに遭って動けないから泊めて呉れ』と頼むと『無鉄砲なことをなさったものだ。こんな日に、それも暮れ方に峠を越す人なんぞありやしない。それでも此処でも来られてよかった』と云って家に入れて呉れたから、私がすぐのそば炉へ寄ろうとすると『それはいけない。そんな事をすると大変だ。あちらに藁があるから暫くの間寒かろうが、それでもかけて休んでおいでなさい』と、如何にも私が泊るのを厭がるやうな素振りのやうに思はれた。けれどもあとで聞いて見ると、矢張凍えた体をすぐ火のそばへ持って行くとひぶくれになり、ひどい目に遭ふので禁物ださうでその為に火の傍らへ寄せ付けないのであった。その中に雑炊が出来たからと云ふので、これで腹をこしらへた。それからその夜は粗末な木蒲団の中に寒い夢を結んだ。翌朝になって見ると足が大変痛んでネ、動きがたくなかったが、其処に何時迄も居る訳にも行かず、足をひきずって出掛けた。本当にあの時はモー助からないと思ったヨ』

香坂峠古道は旧妙義荒船スーパー林道に分断されています。

あたりを付けて林道に出て、その先に古道の道形が確認できます。稜線はもうすぐ。

荒船山と八風山を結ぶ中央分水嶺の香坂峠に到着。このまま東に進めば神津牧場に通じるわけですが、今回はここから八風山を目指します。

途中、東の谷底に一本岩が見えました。「一本岩」というブロブ記事も書きました。

四等三角点 点名「矢川峠」は稜線から東に外れたところにありました。

矢川峠

ツクバキンモンソウがちらほら

神津牧場も確認できました。

八風山手前の獅子岩と呼ばれる岩場を佐久側に回避した登山道でした。それでも鎖が設置されていました。

八風山の一等三角点。軽井沢方面がよく見える山頂。

西に延びる尾根に入っていきなり登場した立派な熊棚。この西に延びる尾根は、閼伽流山や平尾富士に通じる長い尾根です。

旧妙義荒船スーパー林道がまたぐ手前で楽に下れそうなところから林道に出ました。

林道を歩いて車に戻りました。この道は頻繁に長野県と群馬県を行ったり来たり。GWの準備なのか、細かい落石などは取り払われていました。整備は長野か群馬か?なんて考えました。

上信越自動車道佐久平PAからもアプロ―チ出来る平尾温泉みはらしの湯から見える今回のエリア。茂来山の手前に八風山から、西にゆるやかに落ちていく長い尾根が見えています。江戸末期の渋沢栄一の遭難記のような文章をベースに、八風さんを絡め周回したという山行でした。

2023年4月28日金曜日

閼伽流山

佐久市香坂の閼伽流山はアカル山です。典型的な難読山名です。閼伽(あか)は、仏教において仏前などに供養される水のことだそうです。稜線下の観音堂脇の岩の間から清らかな泉がわき出ていたことから、サンスクリット語で「閼伽・清らかな水」という意味で霊水(冷水)が流れる山で閼伽流山です。


慈覚大師により天長3年(826年平安時代)に建立されたと伝わる天台宗の明泉寺。


実際に歩いた地図を載せときます。お寺記号2つと三角点2つを反時計回りに歩きました。地図のミドリの線は上信越自動車道。佐久から横川までの間に10本のトンネルがあり、佐久側で初めに登場する閼伽流山トンネルです。


登山道は車道です。丁目石もあり、十丁目が観音堂です。

観音堂よこの岩壁の下の百体観音。「秩父三十四観音菩薩碑」「板東三十三観音菩薩碑」「西国三十三観音菩薩碑」で百体観音です。一番右に弘法大師像。

20~30mはあるであろう岩壁の下にきれいに並べられた観音像。伊那高遠の石工が彫ったと言われています。

稜線に上がったところが十二丁目の仙人ヶ岳と呼ばれるピークで、昭和天皇が摂政宮(せっしょう・即位前で大正天皇の代役のような立場)であった時代に登頂し、そこで野点をしたということです。大展望が広がっていて、すぐ下が香坂の集落。


閼伽流山の三角点柱石1028.2m。三角点手前の尾根の分岐する1030m圏にも山頂標識があり、2五万図は西の1009m標高点に閼伽流山と書かれているので、山頂が3つもあります。

閼伽流山城跡の城址碑

三等三角点 点名「燕ノ城」868.2m

県道からも見えていた岩稜部。周回ルートにして、どこを下るかを下から見て決めた尾根でした。ロープを使うところまでは難しくはありませんでした。


市川五郎兵衛記念館
下山して佐久市内の宿のチェックインにはまだ早いということで市川五郎兵衛記念館を訪ねました。千曲川左岸の高台にあります。足元に五郎兵衛用水によって拓かれた田んぼが広がっていました。ここは大正時代まで「五郎兵衛新田村」と呼ばれていました。

『市川一族は、甲斐国の武田信玄に仕えていたが、武田氏が滅び主を失った。信濃の国と甲斐国の要所であった南牧の地を収める市川家を家臣にしたかった徳川家康は、父の真久(さねひさ)を江戸城に呼んだが、父は、代わりに22歳の五郎兵衛を江戸城に向かわせた。家康の前で五郎兵衛は、「志すでに武にあらず、殖産興業にあり」と答えたため、家康の領土で土地の開発を認めるという朱印状を与えられた。その後南牧の地で、砥石の採掘で私財をためる。その後市川五郎兵衛は、佐久平で常木用水、三河田用水、五郎兵衛用水の開発で新田を作った。』             五郎兵衛記念館・館長の豆知識より

五郎兵衛用水などで新田が出来て、江戸時代からお米の産地としての佐久地方となります。そのことと上信国境の多くの峠の存在がリンクします。上信国境の多くの峠を越え佐久の米が上州に運ばれるわけです。五郎兵衛記念館の館長、根澤茂さんの熱弁は忘れられません。

佐久の宿では鯉料理を堪能しました。鯉の南蛮漬け。

鯉のあらい。

鯉の旨煮。

五郎兵衛用水で収穫されたお米はブランド米です。あまり知られてはいませんが、米造りに適した土壌ということを五郎兵衛記念館の館長さんに教えていただきました。この日の宿の夕食のお米は五郎兵衛米ということでした。

2023年4月20日木曜日

香坂峠と渋沢栄一

登山家でもない渋沢栄一が僕のブログに登場するなんて?ですよね。渋沢栄一のエピソードに触れ、上信国境の南北に延びる尾根の理解が一気に進みました。もちろん時代をまたいだ様々な人々の営みに触れてということです。中央分水嶺の上信国境のモヤモヤが少し晴れましたので書いてみます。今週末のガイド山行の準備でもあります。
去年の晩秋の香坂峠です。神津牧場に行く道は古道の雰囲気がしっかり残っています。


大正4年発行の陸地測量部の五万図。地図上の香坂峠は現在は矢川峠と表記されています。この地形図があったのでいろいろ理解出来ました。香坂峠の古道は左下の道。


そもそもあの上信国境になぜ多くの峠が登場するのか?碓氷峠、入山峠、和美沢、矢川峠、香坂峠、志賀越、内山峠、星尾峠... 碓氷峠が特別な意味を持っています。飛鳥時代の官道である東山道、江戸時代の五街道のひとつ中山道も碓氷峠を通ります。日本を代表する峠は天下の公道のため、貨物は宿々で庭銭を払い、常備の伝馬で継ぎ送りする原則(宿駅伝馬制度)でした。そのため費用と時間が掛るので、節約するため民間の物流は脇往還(街道)利用というのが多かったそうです。脇往還にも番所(関所)はありましたが中山道の碓氷関所に比べると取り締まりは比較にならないほど緩かったようです。

大正4年の陸地測量部の地図に書かれている志賀越の馬頭観音。

群馬に家族の用があり先日出掛けました。時間があったので利根川を越え埼玉県深谷市へ寄りました。生家をはじめ多くの渋沢栄一ゆかりのものが残されています。この立派な建物は渋沢栄一記念館です。

野菜の生産が盛んな深谷市、代表は深谷ネギです。記念館入口で売られていた深谷ネギは春ネギだそうで、春が一番柔らかくておいしいと言っていました。

来年から一万円札の顔は渋沢栄一です。

「青淵せいえん」は渋沢栄一の雅号(文人・画家・書家などが本名以外につける風雅な名前)です。「青淵翁誕生之地」は幸田露伴の揮毫でした。

渋沢栄一の生家「中の家」。深谷市北部の利根川沿いの村々では藍をたくさん栽培していました。渋沢家も藍を栽培し、染料となる藍玉を製造していました。さらに、藍を栽培している農家から藍を買い付け、作った藍玉を秩父や上田、佐久の紺屋(染物屋さん)に販売していたのです。幼い頃から、農業や工業、商業、そして金融業を兼業する父の姿を見ながら育った渋沢栄一です。渋沢家は年商一万両、現代でいえば10億円と言われています。

屋敷の中の土蔵は大谷石を積んだ半地下で、藍玉の製造と貯蔵に使われていたそうです。その藍玉を年に何回か秩父や信州に販売に行っていました。渋沢栄一伝記資料の中の「雨夜鐔談話筆記」の中に筆談形式で香坂峠遭難記のようなものが書かれています。これが香坂峠と渋沢栄一が結びつくエピソードです。真冬に佐久と関東をつなぐ脇往還の香坂峠で道に迷い、疲労凍死寸前であったのを香坂集落の老夫婦の手厚い介護により一命を取り留めています。

「中の家」の若かりし渋沢栄一像。上州から藍玉を信州に売りに行ったわけですが、お得意様は約50軒だったそうです。逆に信州からは米が上州に運ばれました。西上州は山間の集落が多く稲作に適した場所は少なかったのです。佐久平は戦国時代の終わりから新田開発が盛んに行われました。中でも有名なのが、五郎兵衛用水を作った市川五郎兵衛です。

市川五郎兵衛:『市川一族は、甲斐国の武田信玄に仕えていたが、武田氏が滅び主を失った。信濃の国と甲斐国の要所であった南牧の地(群馬県南牧村なんもく)を収める市川家を家臣にしたかった徳川家康は、父の真久(さねひさ)を江戸城に呼んだが、父は、代わりに22歳の五郎兵衛を江戸城に向かわせた。家康の前で五郎兵衛は、「志すでに武にあらず、殖産興業にあり」と答えたため、家康の領土で土地の開発を認めるという朱印状を与えられた。その後南牧の地で、砥石の採掘で私財をためる。その後市川五郎兵衛は、佐久平で常木用水、三河田用水、五郎兵衛用水の開発で新田を作った。』佐久市立 五郎兵衛記念館      

西上州南牧の砥沢は刃物を研ぐ砥石の産地でした。市川五郎兵衛は砥石事業で資金をため私財をなげうって佐久平の新田開発をしました。その考え方を渋沢栄一も共感しています。時には砥沢の宿屋(羽沢館)に逗留し市川家の六代目とも交流しています。砥沢からは星尾峠を越え内山峡経由で佐久入りしました。                                 藍と藍玉の写真は「中の家」の展示です。

生家裏の青淵せいえん由来之跡の碑。周辺は青淵公園として整備されています。渋沢栄一は倒幕計画を企て、断念し京都に出る23歳まで家業をやりながら、中国の思想書や歴史書、日本の歴史書を習得し、教養を身に付けまた知性を磨いていきました。

国指定重要文化財「誠之堂せいしどう」

埼玉県指定有形文化財「清風亭」


「誠之堂せいしどう」の見学は間に合いました。日本で最初の国立銀行として設立された「第一国立銀行」(現在のみずほ銀行)の初代頭取は渋沢栄一35歳です。この建物は第一国立銀行の行員が出資して世田谷に建てられた、栄一喜寿記念の建物です。平成11年に移築です。

ステンドグラスが素敵でした。

天井は漆喰のツルと雲。

喜寿のお祝いなので`寿’の鏝絵

ものすごいボリュームに思えた深谷駅の駅舎。

駅のロータリーにも青淵せいえん