2024年12月31日火曜日

大井川西俣

2024年も終わろうとしています。このブログも夏から発信していないのは、単にサボっていただけです。もちろんいろんな山には行っていました。自分の備忘録としてのブログですし、皆さんへの活動報告という意味もあるブログです。山梨の片田舎で活動している登山ガイドとして、出来ることからやっていこうと思えた2024年の大晦日、とりあえず今年の7月の下旬に行った大井川西俣の記事を書こうと思います。印象的な山行でした。
大井川西俣源流部の魚無沢を下降するというリクエスト、まず千枚小屋に入りました。千枚小屋の朝です。

千枚岳直後のこの岩場のハシゴは勇気づけられます。しっかり設置されていて安心なハシゴです。


3000m手前からガスに覆われ強風の中の行動になりました。悪沢岳の山頂標識。


悪沢岳と荒川中岳の最低コルから魚無沢に入りました。とにかくまいったのはガスで視界が遮られ上手いルート取りが叶わなかったことでした。放射状に広がった源流部はハイマツに覆われていて、それでもハイマツが薄いところを選んで下りたかったのですがうまくいきませんでした。ハイマツ漕ぎも下りなんでまだましでしたが。


地形図から特に問題はないだろうと想像していた魚無沢でした。ハイマツ帯を抜けて草付きの急斜面でガスが無くなってきました。

振り返った魚無沢のガラガラ

2000mくらいで登場した雪渓。大井川西俣の支流の小西俣の奥に、右から塩見岳、2784m標高点、小河内岳です。この展望の下流部の草付きにはたくさんのシロバナヘビイチゴの赤い実がなっていて、それを一心不乱に食べていたクマに出くわしたりもしました。

小西俣と魚無沢の出合い。アンテナのようなものはソーラーパネルとカメラです。

近づいて確かめてみると、去年の8~10月にリモートで沢の流れを観察したのでしょう、東海旅客鉄道会社 中央新幹線推進本部という名前と、地権者である東海フォレストの子会社の十山株式会社の名前が書かれていました。JR東海のリニア関連ということです。

大井川西俣支流小西俣に入れば楽勝かもと思っていたけど、なかなか渡渉に神経を使いました。

この山行では何度も確認したのはサンショウウオの確認。これは飛騨サンショウウオでしょうか。

西小石沢出合近くでの幕営。

大井川西俣本流慣合の西俣堰堤。慣合は大井川西俣上流部の伐採基地ともいえる場所でした。今は建物の痕跡もありませんが、二軒小屋と三伏峠のちょうど中間部に位置します。富士川の切石と伊那谷の大鹿村を結ぶ明治5~6年に計画され19年に完成した「伊奈街道」はここを通っているはずですが確かめる余裕はありませんでした。

北俣を右に通過した辺りにあった吊り橋の痕跡。伐採関係のものだと思います。慣合から三伏峠までの間に3か所でワイヤーが確認できました。

時々流れの中を探っていました。これはハコネサンショウウオです。

川幅は広いのですが、真ん中の大岩の上に乗っかっている石を見る度、大水が出た時の様子が想像出来ました。写真の複数の石は水によって運ばれてきたわけですから。

西池ノ沢手前の崩壊地。右岸です。

左岸の東池ノ沢の崩壊地は流域最大です。


三伏沢と権右衛門沢の二俣。


現在の三伏峠の小屋より200m下の三伏沢の中にあった古い三伏小屋跡。現在の二五万図にもともとの歩道が書かれていますが、ここからまっすぐ北に行くと三伏峠と塩見岳の登山道の2498m標高点に出ます。道形はうっすら残っていて、8月に登山道を通った時に確認したら道形はありました。

三伏峠に近づいたら一瞬見えた塩見岳。

標高が2580mもある三伏峠です。

三伏峠から鳥倉林道への登山道はなかなか厳しい道ですが、峠から下り始めたらなんと整備が始まっていました。有難いです。

部材がデポされていたのでここまでかと…

厳しい桟橋が残っていました。

鳥倉林道のバス停

運行は伊那バスで、7月中旬から8月下旬まで1日2便の運行です。バス停から伊那大島駅または中央道松川IC まで運んでくれます。

大鹿村中心部に下る直前、鳥倉林道の最後で土砂降りの雨。本当にこんな降りが多くなりました。大丈夫なんだろうかとかなり不安だったのを憶えています。

いつもは自家用車での移動ですが、この時は身延線で静岡に出て井川に移動、山を歩いた後はバスで飯田線伊那大島に出て電車を乗り継いで中央線の韮崎に帰りました。公共交通機関で山に行く事情があったのですが貴重な体験でした。


2024年7月14日日曜日

万之助カール

蛇抜沢の記事の続きです。標高2650m辺りで傾斜が変わり楽園のようになるのですが、その場所からほど近いところに有名な天鏡池があるということで、空身で歩いていきました。


風雪に揉まれたたくましいダケカンバの疎林は美しかったです。


悪沢岳から北に延びる西小石に至る稜線から見下ろすことが出来る天鏡池です。前日の池に比べ沢水の流れ込みがないため、ただのため池のように思え美しくはありませんでした。僕らも山中でこの池だけにあっていたら感想は違っていたかもしれません。有名なだけになぜか不遇じゃんって思いました。


何度か伏流になって流れが消える蛇抜沢ですが、本流というのはわかります。実際に遡行してわかりにくいのは2600m辺りでしょう。かなり複雑で地形図が表現しきれないエリアでした。前の記事で40mの滝と書いたあたりが2600m圏です。


2800m辺りの万之助カールの出口みたいなところは、うまい具合にハイマツが途切れていました。


2800m辺りのくびれの上が万之助カールの末端です。カールの底の雷井戸と呼ばれる水場です。ガスガスで進行方向は全く見えませんでした。
 

万之助カールで確認したかったのは万之助小屋の石積み。2018年にカールに下りた時には確認できなかったので満を持してという感じでした。ガスガスの中まるで吸い寄せられるような感じで万之助小屋に出会えました。写真は小屋本体の横にあった、きっとトイレだった建物の残骸です。


四方の壁が約1mの石積みで固められていた万之助小屋でした。昭和40年くらいまで万之助小屋は使われていたそうです。何の目的であった小屋かということはわかりません。


万之助というのは神部満之助(かんべまんのすけ)の万之助です。神部満之助は大倉喜八郎の大正15年(1926年)の赤石岳大名登山の陣頭指揮をとった人物の様です。その大名登山は現在の赤石小屋がある大倉尾根がルートで、大倉喜八郎の大倉を冠した尾根の名前です。神部満之助は後にゼネコンの間組の第3代社長になる人物です。


小屋の周りはとてもきれいなお花畑でした。


岩場が続きどう進んでいけばいいのかわからなかった万之助カールの詰め。


ハイマツ漕ぎをすることなく登山道に出ることが出来ました。


3000m峰の丸山山頂


この梯子は画期的だと思いました。千枚岳の登り返しのこの岩場は難所だったので、この梯子がとてもありがたい存在です。


梯子の後にかれんなミヤマムラサキが登場


ある目的があって下った千枚小屋周辺は、鹿柵で高山植物が守られていました。


目的というのはオオサクラソウに会うことでした。以前よりも広範囲に咲いていたオオサクラソウでした。


小屋明け2日前でスタッフが忙しそうにしていました。そんな中でカップ麺を注文し対応していただいたのはありがたかったです。


富士山


マンノー尾根を下りました。万斧がマンノーです。千枚岳から二軒小屋に続く尾根です。写真は上千枚沢の崩れです。

上千枚沢は写真の右に存在しています。登山道は下っているので、この亀裂は上千枚沢に登山道が引っ張られている証拠です。いずれ登山道は上千枚沢に飲み込まれてしまうでしょう。


マンノー沢の頭。三角点名は「千枚」です。


一気に下って見えてきた二軒小屋。ロッジ風の建物は本来登山者を受け入れていた人気の建物でした。木に隠れていますが右はリニア関連の作業員宿舎。


千枚岳から二軒小屋に下る登山道は、そう遠くない時期に廃道になるかもしれないと思いました。昔からのきれいな登山道が残っているところもありましたが、上千枚沢の崩落に飲み込まれそうなところもあるし、何より二軒小屋が…


大井川に架けられた吊り橋に至るまでの最後の登山道は、めちゃくちゃでした。そこの写真ですがよくわかりませんね。部分的に高度な判断が求められる千枚岳と二軒小屋間の登山道です。二軒小屋が登山者対応を放棄したので、千枚岳から二軒小屋に下るという選択肢がかなり細くなりました。悪沢、千枚方面から二軒小屋に下った場合、伝付峠を越えて山梨の早川に下るか(そのルートもバリエーションに近いわけです)、東俣林道を椹島に下るかしかルートがありません。


大井川にかかる吊り橋


この吊り橋も細かく見ればヤバいです。


二軒小屋が登山者を無視してリニア関連の作業員宿舎として存在している今です。いろんな意味で難しくなるエリアです。残念というのが正直な気持ちです。


車に戻り畑薙ダムに下る途中、赤崩に土煙が舞い上がりました。何らかの崩壊があったのだと思います。大規模な崩壊であっという間に沢水が茶色になりました。