2024年7月14日日曜日

万之助カール

蛇抜沢の記事の続きです。標高2650m辺りで傾斜が変わり楽園のようになるのですが、その場所からほど近いところに有名な天鏡池があるということで、空身で歩いていきました。


風雪に揉まれたたくましいダケカンバの疎林は美しかったです。


悪沢岳から北に延びる西小石に至る稜線から見下ろすことが出来る天鏡池です。前日の池に比べ沢水の流れ込みがないため、ただのため池のように思え美しくはありませんでした。僕らも山中でこの池だけにあっていたら感想は違っていたかもしれません。有名なだけになぜか不遇じゃんって思いました。


何度か伏流になって流れが消える蛇抜沢ですが、本流というのはわかります。実際に遡行してわかりにくいのは2600m辺りでしょう。かなり複雑で地形図が表現しきれないエリアでした。前の記事で40mの滝と書いたあたりが2600m圏です。


2800m辺りの万之助カールの出口みたいなところは、うまい具合にハイマツが途切れていました。


2800m辺りのくびれの上が万之助カールの末端です。カールの底の雷井戸と呼ばれる水場です。ガスガスで進行方向は全く見えませんでした。
 

万之助カールで確認したかったのは万之助小屋の石積み。2018年にカールに下りた時には確認できなかったので満を持してという感じでした。ガスガスの中まるで吸い寄せられるような感じで万之助小屋に出会えました。写真は小屋本体の横にあった、きっとトイレだった建物の残骸です。


四方の壁が約1mの石積みで固められていた万之助小屋でした。昭和40年くらいまで万之助小屋は使われていたそうです。何の目的であった小屋かということはわかりません。


万之助というのは神部満之助(かんべまんのすけ)の万之助です。神部満之助は大倉喜八郎の大正15年(1926年)の赤石岳大名登山の陣頭指揮をとった人物の様です。その大名登山は現在の赤石小屋がある大倉尾根がルートで、大倉喜八郎の大倉を冠した尾根の名前です。神部満之助は後にゼネコンの間組の第3代社長になる人物です。


小屋の周りはとてもきれいなお花畑でした。


岩場が続きどう進んでいけばいいのかわからなかった万之助カールの詰め。


ハイマツ漕ぎをすることなく登山道に出ることが出来ました。


3000m峰の丸山山頂


この梯子は画期的だと思いました。千枚岳の登り返しのこの岩場は難所だったので、この梯子がとてもありがたい存在です。


梯子の後にかれんなミヤマムラサキが登場


ある目的があって下った千枚小屋周辺は、鹿柵で高山植物が守られていました。


目的というのはオオサクラソウに会うことでした。以前よりも広範囲に咲いていたオオサクラソウでした。


小屋明け2日前でスタッフが忙しそうにしていました。そんな中でカップ麺を注文し対応していただいたのはありがたかったです。


富士山


マンノー尾根を下りました。万斧がマンノーです。千枚岳から二軒小屋に続く尾根です。写真は上千枚沢の崩れです。

上千枚沢は写真の右に存在しています。登山道は下っているので、この亀裂は上千枚沢に登山道が引っ張られている証拠です。いずれ登山道は上千枚沢に飲み込まれてしまうでしょう。


マンノー沢の頭。三角点名は「千枚」です。


一気に下って見えてきた二軒小屋。ロッジ風の建物は本来登山者を受け入れていた人気の建物でした。木に隠れていますが右はリニア関連の作業員宿舎。


千枚岳から二軒小屋に下る登山道は、そう遠くない次期に廃道になるかもしれないと思いました。昔からのきれいな登山道が残っているところもありましたが、上千枚沢の崩落に飲み込まれそうなところもあるし、何より二軒小屋が…


大井川に架けられた吊り橋に至るまでの最後の登山道は、めちゃくちゃでした。そこの写真ですがよくわかりませんね。部分的に高度な判断が求められる千枚岳と二軒小屋間の登山道です。二軒小屋が登山者対応を放棄したので、千枚岳から二軒小屋に下るという選択肢がかなり細くなりました。悪沢、千枚方面から二軒小屋に下った場合、伝付峠を越えて山梨の早川に下るか(そのルートもバリエーションに近いわけです)、東俣林道を椹島に下るかしかルートがありません。


大井川にかかる吊り橋


この吊り橋も細かく見ればヤバいです。


二軒小屋が登山者を無視してリニア関連の作業員宿舎として存在している今です。いろんな意味で難しくなるエリアです。残念というのが正直な気持ちです。


車に戻り畑薙ダムに下る途中、赤崩に土煙が舞い上がりました。何らかの崩壊があったのだと思います。大規模な崩壊であっという間に沢水が茶色になりました。

 

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