2014年5月19日月曜日

鹿の子池


ガイド山行の募集をしていた「水無峠山」の山行報告です。
早川町の雨畑地区の最終集落、長畑の先にゲートがあって、とりあえず開かずのゲート・・・
ゲートの先に遠沢という大きめの沢があって、その沢の南の尾根に取り付きました。



登り始め

急な登り、標高差約1300m

真ん中の一番低いところが山伏峠、左が山伏、右が小河内山


標高900mくらいから登り始めて、山梨と静岡の県境の稜線を目指しています。
このあたりのエリアは、標高1600mくらいから山菜のコシアブラの畑のようになります。


カラマツの新芽がとっても綺麗!写真の中のカラマツ以外は全部コシアブラなんです!


尾根の途中から見た、水無峠山と小河内山


県境の尾根にでたら残雪

途中で見かけた宮標石

水無峠山手前の池 


水無峠山

だだっ広い水無峠山の山頂(山頂は同定出来ません・・・)から西南方面に約300m下って・・・


鹿の子池! 


ある意味非常に複雑な地形で、狭い範囲の中、地形図と地形を照らし合わせるのが難しい場所 
傾斜がないので、地形図の主曲線、10mの標高差ということなのですが、地図では表現出来ない程のなだらかな地形です。


ツエルト泊完璧!なのは雨の心配がない天候だったからです。
快適に眠れました!だいたい水の心配がないテント場!


本日のメインメニュー

ご飯を炊いて、天ぷら揚げて!アルファー米ではありません!


ファイヤー!



翌朝もコシアブラがらみの飯!残ったご飯を雑炊にしてコシアブラ雑炊! 


鹿の子池はどこからやって来てどこに行くのか・・・落ち口が確認できて納得でした。


基本こんな感じの山です。 

展望台に行くじゃんけ!

七面山と八紘嶺、そんでもって富士山。 


上河内岳と聖岳、手前に青薙山。


下山ルートの途中から、布引山と小笊が見えました。 


富士とヤマザクラと枯れん木


コシアブラの大木


こいつも大木!


見上げると美味しそう。手が届きません・・・


こんなカラフルな木々。


終点のゲート

茅ヶ岳の登り下りを2往復するぐらいの元気があれば問題ないルートです。
加えて地図読み山行です。リクエストお待ちしております!






2014年5月15日木曜日

サライ


まわりまわってきた話
女性記者が韮崎にいらっしゃったのが3月19日、韮崎駅での待ち合わせの目印に、雑誌サライを持つというその方に、田舎の駅なので心配なくお会いできますよ!とアドバイス。


間違いがないか何度かメールのやり取りがありました。


あまり雑誌を見ることはないのですが、あの編集者とのやり取りで、活字にする責任感を感じたのでした。サライという雑誌は割と年齢の高い層が読者だそうで、紹介するガイドも若くないほうがいい!?との御希望に・・・年齢を告げると・素晴らしい!まさしくドンピシャ!と言われた時はなんだか複雑な気持ちになりました。


四つある富士さんのメインルートの中で、他が埋まって行って最後に回ってきた感のある須走口という感じでした。
7月以降何度か行くことになるでしょう。皆様どうぞよろしくお願いします。




2014年5月13日火曜日

みたけ道江草岩下ルート

山梨における「みたけ道(みたけみち)」というのは、日本百名山の「金峰山」の山岳信仰のルートのことを言います。山宮が山頂横の「五丈岩」の南にあり、そこに登るのに里宮の「金桜神社」にまずお参りして行くというのが正しい金峰山登山でした。

金桜神社のあるのが甲府市御岳という地区です。
金峰山講中登山の最盛期には神主の家が70件、参詣者の宿泊所が200軒も在ったと言われています。昔のルートは金桜神社から猫坂を通り、黒平集落を経て、御室小屋に泊り山頂を極めるというものでした。



原全教 奥秩父・続編

山梨の地名を考えるときの最も参考になる資料として「甲斐国志」文化11年(1814年)成立の江戸時代の地誌があります。
その中に金桜神社に至るみたけ道は9口あると書かれています。(甲斐国志 巻ノ二十 山川部第一 巨摩郡北山筋)吉沢村、塚原村、亀沢村、万力村、西保村、杣口村、穂坂村、江草村、小尾村です。当然現在では麓から歩いて行くということはありません。今回はその江草村からのルートを歩きました。みたけ道としてはすでに廃道になっているので地図読みをしながらの山行です。

 甲斐国志は詳細な記述はないので、別な資料の登場です。昭和の初めに活躍した原全教

尾崎喜八に「奥秩父の王子」と言われた人で、昭和10年刊行の「奥秩父・続」にこのルートの記述があり、その文章をベースに山行を進めました。

原全教の地図

ヨロヤ澤手前の石仏

ヨロヤ澤に入ってすぐの2体目の石仏


伐採地手前の3体目の石仏


道標の石仏

なんだかバラバラなパーツを寄せただけの状態が変だったので、ちゃんと乗せなおしました。

台があって、四角い道標の上に台座が乗っかってその上に観音菩薩像。というのが正式なお姿です。道標には「左 山みち、上 みたけ山、右 山みち」と彫ってあります。

頭がない石仏が多いのは、明治の初めに起きた「廃仏毀釈」のせいです。


さらに横には建立された年号も彫られています。文政年間は1818年~1830年


 右奥が兎藪1449m、手前がマナリ岩のある1363mのピーク


伐採地の途中にあった5体目の石仏


ヨロヤ澤から峠を越えて穴小屋澤へ。峠の石仏は6体目 


穴小屋澤に下ります。

これも台座が道標。7体目古い案内板がありこんなことが書かれています。

『この地蔵尊と思われる石佛はこの場所に埋没していたものを甲斐木材会社が発掘したものであります。文政6年4月建立と刻まれた道標を兼ねて昔の御岳参道の行路諸人の結縁を祈ったものと思われます。これより奥の山道にもいくつもこれと同じような石佛が祀られていて往年のこの街道あり様、当時の信仰の厚さが伺われる重要な資料と思われます。

昭和4?年6月拾日  甲斐木材会社』


8体目の石仏


9体目の石仏


10体目の石仏



11体目の大物



原全教の地図の中で「地蔵尊」と書かれている、大峠の下にある立派な石仏。
かなり前に兎藪から観音峠に藪こぎしていた時に、カラマツの植林地で偶然この像に出会ったことがきっかけでみたけ道の存在を知ったのでした。12年前でした。


とてもさわやかな5月の空でした。



観音峠からの登山道

観音峠から茅ヶ岳に向かう登山道は初心者向けではありません。鎖場がいくつもある!

大峠の石仏
 現在の観音峠の位置よりも西にあるのが大峠、この石仏で同定出来ます。12体目
江草の岩下(いわのした)の造り酒屋、萬屋(よろずや)が先祖の弔いと、みたけ講の信者さんの道標として、一町ごとに石仏を建立したというのが、この石仏群のいわれです。


コゴミの大群落

木を植える人と情報交換

みたけ道に観音像を建立した萬屋の現在の姿


なかなか訪れることのないエリアだと思います。でも近くにはクライミングで有名な‘甲府幕岩’もあります。因みに原全教は‘横岩’と表現しています。

2014年5月7日水曜日

開運隧道

広河原方面に行く時のとっておき情報かもしれません!
あの開運トンネルのゲートの話です。僕の体験談として書きますが、責任はとれませんあしからず



新緑はきれいですが修行の道

雪山が見えると何だか嬉しくなります。


池山御池


気圧の谷の通過で寒気がやってきました。


開運隧道

ゲートを正面からまともに見るとこうです。
当然メインの鉄格子は鎖でしっかり固定されています。右端の、人が出入りできる扉ですが、下の写真だと頑丈に施錠されている!と誰でもが思うでしょう。今まではすっかり信じ込んでいた開かずの海運ゲート


ゲートの内側の図

内側のドアノブを回したら普通に開いてしまいました!
外に出てドアを閉めて、表からゲートの格子に腕を入れたら、内側のドアノブに手が届いたので簡単に開けられました。な~んだ、乗り越えなくてもいいんじゃん!




頑丈な施錠

タラの芽とコゴミを少々


町営‘奈良田の里温泉’は値上がりしていて、お一人様¥550


とろりとした泉質


食堂で収穫した山菜を揚げていただきました。
おそばと一緒に御馳走様。