山梨における「みたけ道(みたけみち)」というのは、日本百名山の「金峰山」の山岳信仰のルートのことを言います。山宮が山頂横の「五丈岩」の南にあり、そこに登るのに里宮の「金桜神社」にまずお参りして行くというのが正しい金峰山登山でした。
金桜神社のあるのが甲府市御岳という地区です。
金峰山講中登山の最盛期には神主の家が70件、参詣者の宿泊所が200軒も在ったと言われています。昔のルートは金桜神社から猫坂を通り、黒平集落を経て、御室小屋に泊り山頂を極めるというものでした。
山梨の地名を考えるときの最も参考になる資料として「甲斐国志」文化11年(1814年)成立の江戸時代の地誌があります。
その中に金桜神社に至るみたけ道は9口あると書かれています。(甲斐国志 巻ノ二十 山川部第一 巨摩郡北山筋)吉沢村、塚原村、亀沢村、万力村、西保村、杣口村、穂坂村、江草村、小尾村です。当然現在では麓から歩いて行くということはありません。今回はその江草村からのルートを歩きました。みたけ道としてはすでに廃道になっているので地図読みをしながらの山行です。
甲斐国志は詳細な記述はないので、別な資料の登場です。昭和の初めに活躍した原全教
尾崎喜八に「奥秩父の王子」と言われた人で、昭和10年刊行の「奥秩父・続」にこのルートの記述があり、その文章をベースに山行を進めました。
ヨロヤ澤に入ってすぐの2体目の石仏
伐採地手前の3体目の石仏
なんだかバラバラなパーツを寄せただけの状態が変だったので、ちゃんと乗せなおしました。
台があって、四角い道標の上に台座が乗っかってその上に観音菩薩像。というのが正式なお姿です。道標には「左 山みち、上 みたけ山、右 山みち」と彫ってあります。
頭がない石仏が多いのは、明治の初めに起きた「廃仏毀釈」のせいです。
さらに横には建立された年号も彫られています。文政年間は1818年~1830年
右奥が兎藪1449m、手前がマナリ岩のある1363mのピーク
伐採地の途中にあった5体目の石仏
ヨロヤ澤から峠を越えて穴小屋澤へ。峠の石仏は6体目
これも台座が道標。7体目古い案内板がありこんなことが書かれています。
『この地蔵尊と思われる石佛はこの場所に埋没していたものを甲斐木材会社が発掘したものであります。文政6年4月建立と刻まれた道標を兼ねて昔の御岳参道の行路諸人の結縁を祈ったものと思われます。これより奥の山道にもいくつもこれと同じような石佛が祀られていて往年のこの街道あり様、当時の信仰の厚さが伺われる重要な資料と思われます。
昭和4?年6月拾日 甲斐木材会社』
8体目の石仏
9体目の石仏
10体目の石仏
原全教の地図の中で「地蔵尊」と書かれている、大峠の下にある立派な石仏。
かなり前に兎藪から観音峠に藪こぎしていた時に、カラマツの植林地で偶然この像に出会ったことがきっかけでみたけ道の存在を知ったのでした。12年前でした。
とてもさわやかな5月の空でした。
観音峠から茅ヶ岳に向かう登山道は初心者向けではありません。鎖場がいくつもある!
大峠の石仏
現在の観音峠の位置よりも西にあるのが大峠、この石仏で同定出来ます。12体目
江草の岩下(いわのした)の造り酒屋、萬屋(よろずや)が先祖の弔いと、みたけ講の信者さんの道標として、一町ごとに石仏を建立したというのが、この石仏群のいわれです。
みたけ道に観音像を建立した萬屋の現在の姿
なかなか訪れることのないエリアだと思います。でも近くにはクライミングで有名な‘甲府幕岩’もあります。因みに原全教は‘横岩’と表現しています。
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