2019年4月8日月曜日

大室山

富士山の北西に位置する大室山(おおむろやま)1468mです。朝霧高原を抜けて静岡方面に行くときすぐ横を通るので前々からとても気になっていました。この山を語るとすればどうしても富士山の噴火の歴史から辿ることになります。基本的に歴史時代前の話しなので噴火を見た人の記録ということではありませんが、自然科学の常識ということなんでお許しください。
先小御岳火山 70万年前~20万年前(これは2001年からのボーリングで発見された) 
小御岳火山 20万年前~10万年前(今のスバルラインの五合目駐車場の先です)    
古富士火山 10万年前~5,000年前(新富士の中ですが宝永山に一部露出してます)  
新富士火山 5,000年前~現在 今の富士山は新富士なんです。10 万年前から古富士火山としての活動が始まり、約 1 万年前頃に現在に近い形となったと言われています。

で、大室山です。新富士山頂の火口ではなく、側火山といわれる噴火跡が富士山の周りに70個以上あると言われています。小さな小山がたくさんありスコリア丘と呼ばれ、○○塚というよばれ方が多いのは静岡側です。側火山で一番大きなものといえるのが大室山です。だいたい3300年前の噴火だったと言われています。


県道71号富士宮鳴沢線が精進口登山道を横切るところの駐車スペースから出発。精進湖の東からスバルライン五合目に至るのが精進口登山道です。青木ヶ原樹海の真ん中を通ります。


大室山が出来た後、歴史時代に入ってから大きな噴火は3回と言われ全て側火山からです。

延暦えんりゃく19~21年(800~802年)平安の初め
貞観じょうがん6~8年(864~866年)平安時代の初め
宝永ほうえい4年(1707年)の噴火です。宝永は江戸時代前期です。

溶岩が押し流されゆっくり固まった様子が、登山道で見られたりします。


貞観じょうがん6~8年(864~866年)の噴火は、大室山の東の長尾山1424mから大量の溶岩を流す噴火でした。(溶岩流は長尾山だけでなく複数あったようです。)流れ出した溶岩は北西に進み大室山で分断され、一部は大室山の西に流れましたが、大部分は当時あった大きな湖「せの海」に流れ込みます。せの海は残りとして西湖と精進湖を残し、本栖湖を狭めました。風穴とか氷穴とか溶岩樹形というのはその時の産物です。今から860年以上前に出来た青木ヶ原樹海、樹海はその後に針葉樹を中心とした森が成長したという貴重なものです。
富士風穴。


富士風穴、ここは許可を取れば入ることが出来ます。ヘルメット、ツナギなんかで同じ格好をしたエコツアーの人たちに会ったりします。僕らでも入れます。僕は環境省委託の国立公園指導員だったりもしますから。


南東にさらに進むと大室山の麓です。いっきに森の様子が変わって広葉樹の森に変化します。貞観じょうがん6~8年(864~866年)の噴火で出来た青木ヶ原樹海から、3300年前に出来たスコリア丘の大室山のエリアに入ったということです。


足元は枯葉でふかふかでした。それとこのえぐれた道は、単なる登山道というより昔の山仕事の道ではないかと思いました。


次々に登場する溶岩トンネル。大室洞穴はずいぶん前に入り口が崩落して入れないようでした。


それでも入り口を見てみたいと思いましたが、樹木が邪魔してよくわかりませんでした。


巨木の森だった約900年前の森に流れてきた溶岩が作り出した溶岩樹形。噴火によって作り出された青木ヶ原樹海の様子は調べつくされていると思います。ただ一般人が簡単にその情報に触れるというシステムはないように思います。興味本位でうろうろされたら破壊されてしまう自然だからでしょうか。


絶対これ登山道というより仕事道です。右側の大室山の斜面はカラマツの植林地でした。


神座風穴。すぐ隣の1280m標高点を神座山というらしいです。


誰でも入れるわけではないし、ロープがないとちょっとな~という感じの穴ばかりです。当然立ち入り禁止です。


神座風穴


手前は針葉樹の森、向こうは広葉樹の森。貞観じょうがん6~8年(864~866年)の噴火の時に流れた溶岩の上が針葉樹の森で、3300年前に出来た大室山のが広葉樹の森です。


神座風穴から西に進み大室山の斜面にぶつかって、北に向かう道の跡を進みます。ほとんど浸食されていない大室山の斜面。一周しても沢地形が登場しません。地形図を見れば一目瞭然です。北の尾根まで行って山頂方面に南に進みました。


斜面をトラバースしていたけもの道を南に辿ったら、大室山の東の斜面にあった炭焼き窯の跡。大雑把に設定された(範囲は決まっているとは思いますがそんな風に感じます。)富士山原生林の中に炭焼きの跡。


東側から山頂に向かいました。時々現れたスコリアの地面。スコリア(ガサガサした多孔質の小石、火山活動の産物)


落ち葉によって土になっている斜面。


大室山の山頂の立派なブナ。


山頂は1468m標高点、南に行くと1447.3m三角点大室山なんですが、まずは大室山の噴火口に立ちたいということで三角点とは反対の尾根を下りました。笹が濃く歩き難い尾根道でした。下り立った噴火口。


南のコル。


こんな笹です。やぶ漕ぎでした。


そのまま戻るのも面白くないので、地図を見ながら大室山の北の本栖風穴にダイレクトに下りました。途中から見えた本栖湖と精進湖です。貞観じょうがん6~8年(864~866年)の噴火でもともとのせの海が分断されました、本栖湖と精進湖と西湖は水面の高さが900mということで同じです。地面の下で繋がっているらしい3つの湖。


青木ヶ原樹海です、まさか人骨ではないと思いますが・・・


地図には書かれていない巨大な穴。


本栖風穴


ここもトラロープで囲われていて立ち入り禁止です。


アセビが咲き始めていました。


新富士と大室山。
3300年前に噴火して大量のテフラを噴き上げました。テフラ(火山灰)とは、噴火で登場する溶岩と火山性ガス以外の噴出物を指すようです。火山礫、火山岩塊、火山弾そして僕らはイメージしやすい火山灰、スコリアみんなひっくるめてです。火山の噴出物で出来た山、それが大室山です。それが何千年も崩れないでそのままの形で今もあるのかというのは、大室山の傾斜角度にあるそうで「安息角」という用語が登場します。つまり砂山が長い間崩れずに安定を保ちうる角度だそうです。安定角とも言うそうです。どうりで沢も出来ないってことなんだ!それはそれですごいことです。


2019年4月3日水曜日

迦葉坂

甲斐国から他国へ出る道、主要な古道は9筋あったと言われています。多くはアスファルトの車道と化している現在ですが、登山と結び付けて考える価値があるひとつとして「中道往還」はおススメです。中道往還は甲府と東海道吉原宿を結ぶ道です。昔から道中の難所として2つの峠越えがあります。迦葉坂(かしょうざか)と阿難坂(あなんざか)という2つの峠、現在は甲府精進湖線の右左口隧道と精進湖隧道のちょっと長めのトンネルになっています。右左口は(うばぐち)です。歩いて峠越えをした場合、登り口に戻るのがちょっと難しいので、峠の向こうの芦川側は行ったことがありませんでした。迦葉坂の向こう側の今回です。芦川の支流境川、正面の階段が芦川沿いの地蔵堂集落からの登山口です。


幅のある道かたに入ると石畳。いきなりだったのでちょっとビックリしました。


迦葉坂は別名「右左口坂うばぐちざか」とも呼ばれます。阿難坂は「女坂」とも呼ばれます。甲府市合併前の「中道町史」を読んでみました。迦葉も阿難もお釈迦様の主要な10人のお弟子さまの名前です。迦葉坂の峠越えをすると旧上九一色村(かみくいしきむら)に入ります。オウム真理教で有名になった村でした。上九一色村は上九一色と下九一色と大きく分けられます。その境の釈迦ヶ岳1271m山頂の東の尾根にお釈迦様の石像があって東を向いておられ、右手の峠が阿難尊者で阿難坂、左手が迦葉尊者で迦葉坂、そういう意味から付いた地名ということでした。      馬頭観音


案内は峠の向こう側から続いています。数字は通しになっていて全部で30体くらいの石造物ということらしいです。右左口隧道の北の入り口横にある立派な案内板に「右左口宿歴史文化村推進委員会」の名があります。


立派な道です。


整備の手が入っていました。


古くは軍用道路として使われた峠道。江戸から明治の近世では物流の峠道。商業の流通路として使われるようになってからの石仏なのだと思います。


鉄道、中央線や身延線が開通するまで、甲州人の食する海産物はほとんどこの峠道を運ばれました。昭和50年発行「中道町史」にその様子が詳しく書かれています。
駿河の吉原の魚問屋を午後4時ころ出発し、人穴、根原あたりで夕暮れ。三十貫目(約120㎏)の魚を馬に背負わせ、夜通し阿難坂、迦葉坂を越えて翌朝7時ころ甲府の魚市場に着くという行程、迦葉坂あたりで夜明けだったそうです。


素朴な馬頭観音のお顔


チョウジザクラ


右下に一里塚の役割をしていたと思われる石積。


「馬子は中道往還に約80人、馬は100頭余りあって一人で二、三匹の馬を引く馬子もあった。また、大量の荷物で馬だけでは間に合わず人を頼み背負子(しょいこ)で次の問屋に運ぶことがあった。このようなときは男女を問わず、一本十貫目(約40㎏)もするマグロを背に女坂(阿難坂)や右左口峠(迦葉坂)を背負い越したということである。」


芦川の登山口から1時間くらいで迦葉坂の峠に達します。


峠の西の石祠。芦川沿いの地蔵堂集落にそのまま来た道を下るのでは芸がありません。迦葉坂西の関原峠に行き、そこから芦川に下ることにしました。西に向かいます。


ダンコウバイも盛んに咲いていました。


御坂山地の北の主稜線はとても荒れてました。


関原峠
関原というのは北側、甲府盆地側の集落の名前です。関原峠は地元の関原と芦川沿いの集落との交易の峠です。立派な道標は現在の中央市が設置したもので、さらに西の大峠の手前にあるピークを盛んに宣伝しているわけです。たいら山と名付けられた、そのまま平らな山頂が中央市で一番高いピークでたいら山932m。


関原峠から北へ下る道は整備されていましたが、南の芦川側に下るルートは道の形は残っていましたが、かなりひどい道でした。


ひどい道ですが、こんな石積みは昔の人の苦労が偲ばれます。


関原峠から地蔵堂に下る道の途中の分岐にあった馬頭観音。左に行けば関原峠、右に行けば迦葉坂。迦葉坂に行く道の方がしっかりしていたイメージでした。


架線跡があった小屋。物資を運ぶのにワイヤー架線を使っていたのだと思います。芦川の県道まで標高差は左程ありません。


下に県道が見えてきました。尾根道の最後は急傾斜。地蔵堂の集落は目と鼻の先です。迦葉坂は整備されていて、関原峠の道は倒木と崩落でひどい道でした。