2019年4月3日水曜日

迦葉坂

甲斐国から他国へ出る道、主要な古道は9筋あったと言われています。多くはアスファルトの車道と化している現在ですが、登山と結び付けて考える価値があるひとつとして「中道往還」はおススメです。中道往還は甲府と東海道吉原宿を結ぶ道です。昔から道中の難所として2つの峠越えがあります。迦葉坂(かしょうざか)と阿難坂(あなんざか)という2つの峠、現在は甲府精進湖線の右左口隧道と精進湖隧道のちょっと長めのトンネルになっています。右左口は(うばぐち)です。歩いて峠越えをした場合、登り口に戻るのがちょっと難しいので、峠の向こうの芦川側は行ったことがありませんでした。迦葉坂の向こう側の今回です。芦川の支流境川、正面の階段が芦川沿いの地蔵堂集落からの登山口です。


幅のある道かたに入ると石畳。いきなりだったのでちょっとビックリしました。


迦葉坂は別名「右左口坂うばぐちざか」とも呼ばれます。阿難坂は「女坂」とも呼ばれます。甲府市合併前の「中道町史」を読んでみました。迦葉も阿難もお釈迦様の主要な10人のお弟子さまの名前です。迦葉坂の峠越えをすると旧上九一色村(かみくいしきむら)に入ります。オウム真理教で有名になった村でした。上九一色村は上九一色と下九一色と大きく分けられます。その境の釈迦ヶ岳1271m山頂の東の尾根にお釈迦様の石像があって東を向いておられ、右手の峠が阿難尊者で阿難坂、左手が迦葉尊者で迦葉坂、そういう意味から付いた地名ということでした。      馬頭観音


案内は峠の向こう側から続いています。数字は通しになっていて全部で30体くらいの石造物ということらしいです。右左口隧道の北の入り口横にある立派な案内板に「右左口宿歴史文化村推進委員会」の名があります。


立派な道です。


整備の手が入っていました。


古くは軍用道路として使われた峠道。江戸から明治の近世では物流の峠道。商業の流通路として使われるようになってからの石仏なのだと思います。


鉄道、中央線や身延線が開通するまで、甲州人の食する海産物はほとんどこの峠道を運ばれました。昭和50年発行「中道町史」にその様子が詳しく書かれています。
駿河の吉原の魚問屋を午後4時ころ出発し、人穴、根原あたりで夕暮れ。三十貫目(約120㎏)の魚を馬に背負わせ、夜通し阿難坂、迦葉坂を越えて翌朝7時ころ甲府の魚市場に着くという行程、迦葉坂あたりで夜明けだったそうです。


素朴な馬頭観音のお顔


チョウジザクラ


右下に一里塚の役割をしていたと思われる石積。


「馬子は中道往還に約80人、馬は100頭余りあって一人で二、三匹の馬を引く馬子もあった。また、大量の荷物で馬だけでは間に合わず人を頼み背負子(しょいこ)で次の問屋に運ぶことがあった。このようなときは男女を問わず、一本十貫目(約40㎏)もするマグロを背に女坂(阿難坂)や右左口峠(迦葉坂)を背負い越したということである。」


芦川の登山口から1時間くらいで迦葉坂の峠に達します。


峠の西の石祠。芦川沿いの地蔵堂集落にそのまま来た道を下るのでは芸がありません。迦葉坂西の関原峠に行き、そこから芦川に下ることにしました。西に向かいます。


ダンコウバイも盛んに咲いていました。


御坂山地の北の主稜線はとても荒れてました。


関原峠
関原というのは北側、甲府盆地側の集落の名前です。関原峠は地元の関原と芦川沿いの集落との交易の峠です。立派な道標は現在の中央市が設置したもので、さらに西の大峠の手前にあるピークを盛んに宣伝しているわけです。たいら山と名付けられた、そのまま平らな山頂が中央市で一番高いピークでたいら山932m。


関原峠から北へ下る道は整備されていましたが、南の芦川側に下るルートは道の形は残っていましたが、かなりひどい道でした。


ひどい道ですが、こんな石積みは昔の人の苦労が偲ばれます。


関原峠から地蔵堂に下る道の途中の分岐にあった馬頭観音。左に行けば関原峠、右に行けば迦葉坂。迦葉坂に行く道の方がしっかりしていたイメージでした。


架線跡があった小屋。物資を運ぶのにワイヤー架線を使っていたのだと思います。芦川の県道まで標高差は左程ありません。


下に県道が見えてきました。尾根道の最後は急傾斜。地蔵堂の集落は目と鼻の先です。迦葉坂は整備されていて、関原峠の道は倒木と崩落でひどい道でした。


0 件のコメント:

コメントを投稿