2021年11月29日月曜日

陸地測量部の地形図

所属している静岡山岳自然ガイド協会の今月あった研修の様子です。読図研修というリクエストだったのですが、明治の陸地測量部の地形図を絡めてというもの。いっぱい調べて準備してという事前でした。参加者は登山ガイドの皆さんだし、この研修自体がピンチヒッターでオリジナルは上野真一郎さんが企画したものだったからです。調べた資料や何がどうしてこの日になったってことを全て伝えて始まった研修。注目してくださいの虫眼鏡。


天神峠尾根と呼ばれている、昇仙峡の入り口の長瀞橋先から帯那山に続く尾根。その末端から塔岩集落を目指しました。現在のニ五万図にも掲載されている集落名です。塔岩沢の左岸の林道をアプローチに登って行き、右岸に渡る橋を過ぎてそのまま尾根に取り付こうと思っていたのですが、あまりの急傾斜と倒木で県道に出ました。名前にいわくありと思えた「のろし台隧道」というプレートが掲げられていたトンネル入り口。


この天神峠尾根の下部はすっきりしてない感じでしたが、尾根に上がってしまえば古い道形が登場してスムーズに進めました。660標高点点の手前にあった馬頭観音。


こんなえぐれが古い道形です。


やぶ山あるあるの送電線の巡視路のサイン


青空が嬉しくなってきた尾根の上


時々確認した明治の陸地測量部の地形図。


表情がユニークだったダアス峠の馬頭観音。


標高950m圏の大展望。
 

やぶではないので進みやすい尾根です。



ニ五万図の天神峠の位置は違っていて、実際は1030m標高点の東のコルが天神峠だとわかった実際の現場。道形が残っているからです。



天神峠から道形を辿って塔岩集落跡に下るにつれ畑跡の石積みが段々に登場しました。



塔岩集落跡のはずれにあった珍しい五地蔵。庚申塔や六地蔵の石造物もあり、建物は全くなくなっていた塔岩集落でしたが、人々の営みがしっかり感じられました。


塔岩集落東の神社の石祠。どんな意味なわからないのだけど、錆びついた刀が奉納されていました。日本刀です。


大日本帝国陸地測量部二万分の一地形図「松嶋村」。日本の地図の歴史を端折って言えば、奈良の大仏を作った行基図の次が伊能忠敬の伊能図と言われています。その伊能図の次が陸地測量部の地図となります。陸地測量部に地図造りが集約される前は様々なお役所が地図つくりにトライしてました。代表格が御料局三角点の存在だったりします。明治21年の陸地測量部が出来て一本化されるわけですが、当初二万分の一の地形図を作りはじめ、その縮尺では予算が膨大になるということで、途中から五万分の一地形図に制作目標を変えました。当初の二万図は今でも約1000枚近く現在の国土地理院に残されています。そのうちの一枚の二万図の「松嶋村」です。


大日本帝国陸地測量部という印刷された文字がとてつもなく時代を感じます。現在の人工物の送電線とか、甲府市民になじみの千代田湖なんかも地形図上に存在しない明治21年測量の地図なんです。


塔岩集落からの下山。後の時代の林道を下りました。現在ともいえます。


薄い白い線でマーキングしてみた明治の鳥居のマーク。明治の陸地測量部の地形図を見るのにあたって難しいのは地図記号が現在のものとは違うということです。神社記号が違うのでした。普通に鳥居をイメージするものではなく、貫と言われる2本目がない記号。白い線のマーキングです。


顕著な尾根の等高線は現在のニ五万図と一致していました。赤い線の尾根です。


陸地測量部の地形図に引いてみた特徴的な尾根の赤線、現在のニ五万図にも引いてみた現在のニ五万図です。違いは林道が書かれているということ。805m標高点の先のこ道と交わるあたりの林道に馬頭観音があるみたいという事前情報がありました。陸地測量部の地形図と見比べながら、現在の林道を無視して古道の道形をトレースしてみたりしました。


古道と現在の林道が交わる先にあった朽ちかけた馬頭観音。もちろん狙って見つけれれたわけなんで大歓声の瞬間でした。


昇仙峡の天神平に戻って振り返りをして締めました。すごく充実した陸地測量部の地形図を利用した地図読みの一日でした。


昇仙峡のすぐ東のエリアで活動した一日、荒川のすぐ西には金峰山講の外道の信仰の道がありました。山行が終わって盆地に下る道沿いということで、吉沢集落で発掘されたみたけ道一の鳥居も見学しておしまいにしました。


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