2025年9月29日月曜日

五郎山

五郎山、千曲川の源流長野県川上村にある山です。奥秩父の主稜線の金峰山から甲武信岳の北側は千曲川の源流です。その主稜線から何本かの尾根が北に延びています。そのどこかに登って主稜線を眺めてみたいということで登った五郎山です。登山口は町田市の宿泊施設「町田市自然休暇村」の奥です。


町田市の施設の水源の林道をしばらく登り、写真の青い表示板を左に入りました。「関東山地 カモシカ○○○○ 文化庁」と書かれていました。

途中の炭焼き窯跡。

ナギナタコウジュ(長刀香需)。ピンボケですが、小さな薄紫の花が片側に並んで咲く様子がなぎなたで、香需は薬草としての漢方の名前みたいです。乾燥させたものを煮出すそうです。 

古い林道を登って行くと登山口の案内。だいぶ古いものです。道は地形図の徒歩道の通りでした。

登山口から小さな尾根を稜線目指します。すごい急斜面を登りました。300mの標高差。

コメツガの森になると稜線は近いのですが岩稜になります。何か所かトラロープが登場します。

山頂部の稜線は3つのピークに分かれていて、いちばん西のピークがマキヨセの頭。国師ヶ岳や金峰山は雲の中でしたが、大弛峠や大日岩、長峰なんかが確認できました。

こんな感じの岩尾根です。


直線で重なっているのでわかりにくいのですが、マキヨセの頭からみた五郎山山頂と手前のピーク。

最後のピークから見た五郎山。すごい迫力でした。ルートは岩壁の下を右上して、南に回り込んで付いていました。

ルートを示すピンクテープは的確で、過剰につけられていないのは好感が持てました。真ん中のピークからも良く見えたピンクテープ。

五郎山2131.9m山頂。

多く見られたゴヨウマツ(五葉松)。生物学の分類階級のマツ科マツ属は7種類あって、日本産は葉が2本のアカマツ、クロマツ、リュウキュウマツの3種類。葉が5本のゴヨウマツ、チョウセンゴヨウ、ハイマツ、ヤクタネゴヨウの4種類だそうです。写真はゴヨウマツ。「マツ」という名前の種類はないし、ハイマツがゴヨウマツの仲間だなんて知りませんでした。


こちらはチョウセンゴヨウ。ゴヨウマツより葉っぱが倍くらい長いです。


チョウセンゴヨウの松ぼっくりが落ちていました。結構大きな松ぼっくりで、写真に見られるような茶色の堅い殻のカプセルがびっしり。カプセルを割って出てくるのが中華料理やおつまみの「松の実」です。


下山後、五郎山という名前に何かいわれがあるのか?ということで、川上村文化センターに寄りました。音楽ホールや歴史資料が展示され、図書館もここでした。


川上村史などを見てみたけどわかりませんでした。「ゴーロ」とい岩がゴロゴロしている場所っていう所からの五郎山なんですかね~。写真は文化センターの駐車場から見えた五郎山です。

2025年9月27日土曜日

鋸岳アプローチ

山梨百名山を目指す方が最後のピークの鋸岳に!という山行。複数あるルートのうち釜無川源流からというのが一番ハードルが低いんです。ただ、そのアプローチは釜無川林道を9km歩いてから山登りが始まるというなかなかな内容になります。その林道の状況が日々変化しているので、今回の山行でのアプローチの状況を記録しておきます。釜無ゲート手前の駐車スペース、上流方向を見ている写真です。ここを通るダンプカーをはじめとする工事車両のドライバーは、写真のように川側に車を停めてくれると有り難いと言っていました。反対の右側に登山者の車列(30台も停まっている時もあります)があるとすれ違いにくいと言っていました。

 

釜無ゲート、1990年頃にこのゲートが出来て自由に釜無川源流に入れなくなりました。オウム真理教が社会を揺るがしていた頃です。9Kmの林道歩きの始まりです。


約2Kmのあたり。砂防のコンクリートブロックの奥に編笠山が見えています。


釜無ゲートまでの道路地図記号は一車線3mの表示ですが、なぜか釜無ゲートを過ぎると庭園路という破線ダブルの記号になり、さらに中ノ川出合の先で通常の徒歩道の破線路です。
6Km地点の先で林道は分岐し、左の本流の橋を渡って中ノ川中流域大平まで伸びています。写真は6Km地点手前の旧道が写っています。現在の林道は左で、いったん河原に下ります。旧道は歩けるので(車は通れない)旧道を行った方が楽です。


奥に中ノ川大平に向かう橋が見えています。手前の河原は広いスペースがあり、治水のブロックの製造工場みたいになっています。この日はコンクリートミキサー車がひっきりなしに来ていました。型枠が並んでいて、コンクリートを流し込んでブロックを作っていました。


工事車両の砂ぼこりにまみれる、なんてこともあります。


中ノ川分岐を過ぎ、7Km地点を過ぎた河原の様子。


川床を補強しているようでした。左の黒い大きな土嚢が並んでいるのがわかります。工事の邪魔にならないよう登山者が歩くルートを確保してくれていました。


戸草沢という左岸の枝沢。林道通しに歩けないので、戸草沢の流れを過ぎて右の急斜面を登って林道に復帰します。


2020年に戸草沢の橋は流されました。その時は釜無源流の多くの沢で大量の土砂が流れ出しました。ちょうどその直後にここを歩いて驚いたことを書いたブログ。工事関係者の話だとこの橋は2年後に架けられるということでした。


2020年に倒れたままの倒木。


フジアザミは盛んに咲いていました。


シカなのか?カモシカなのか?花ばかりが食べられていました。


本谷第6砂防堰堤は格子状の作り。これが見えてくるといよいよ9Kmの林道歩きの終わりが近いとなります。奥に横岳、その向こうは戸台川です。


9Km地点のサインがある直線。


本谷の最後の河原。正面は主稜線の横岳2142mです。幕営予定の横岳峠は左です。


河原のほぼ真ん中を歩いてぶつかる尾根の末端。本谷の流れのすぐ右です。


2020年の土砂の流れだしでルートが変わり、それから多くの人が歩くことによって落ち着いてきた登山ルートです。以前は右岸に一度渡ったりしましたが、今ではずっと本谷左岸を歩けます。以前よりよっぽどシンプルになりました。写真は昔からあったマーキング。


2本の右からの枝沢をやり過ごして正面の小尾根に取付きます。


その小尾根の末端に昔の標識が残っています。釜無川源流です。


もう少し先にあった釜無川源流は、今は源流標識のすぐ先です。


小尾根の急登。


横岳峠


焚き火台で火をおこし、焼肉の夕食にしました。


翌朝は暗いうちに歩き始め、鋸岳第一高点を目指しました。


無事登頂、鋸岳第一高点です。ピストンなので、ここから釜無ゲートまで長い下りです。


釜無林道ではフジアザミともう一つ目立つのが、ブッドレア(フサフジウツギ 房富士空木)です。別名バタフライブッシュという名前通りにアサギマダラが来ていました。もともと園芸種が野生化した花です。


2025年9月12日金曜日

日本坂

静岡市と焼津市のあいだにある満観峰に登る計画があり、車をどこに停めるとか、電車を使った場合とか、あまりやらない下見ってやつで静岡まで行きました。写真は国道150号が安倍川を渡るあたりから見た満観峰方面です。静岡市の小坂(おさか)地区を目指しました。


「御所の前」の石碑。小坂(おさか)地区に入ると真っ先に眼に入ってきました。石碑側面の解説によると『古代の東海道における日本坂峠越えの道と大崩海岸沿いの道の合流地点である』とのことでした。古代は古墳時代から飛鳥、奈良、平安時代を指す時代区分で、律令制の飛鳥時代に整備された東海道がそもそもの東海道の始まりで、そのころは大崩海岸とか日本坂を通っていたという説明です。東海道は物流の道というよりも情報伝達の道、行政区分の大枠といった意味合いが強かったと思います。ここは駿河の国です。

小坂川を進むと小坂観光駐車場があり、そこにあった日本坂の案内板。平安時代末期に東海道は、日本坂を越えるルートから今の国道1号線が通る宇津ノ谷峠越えに移ったと書かれています。


庚申塚と道しるべの道標が並んでいました。右へ行くと満福寺から満観峰へと続き、日本坂は左です。道標は判読できませんでした。


林道を離れ古い道形があったので登ってみるとあった日本坂峠の案内。しばらく登って行くと林道の終点に出ましたがひどい道でした。でも林道が出来る前は使われていたんじゃないかと思わせる石積みなどはありました。あまりに暑く日本坂まで登るのはやめて林道を下りました。


小坂(おさか)の集落に戻るとこんなタイルがありました。静岡市の現在の鳥は「カワセミ」です。調べてみると平成17年に清水市と合併したときに変わったということでした。もう甲府盆地ではツバメは飛んでいませんが、静岡では越冬して年中みられるツバメ、ということは知っていましたが、ヒメアマツバメという種類は見たことがありません。


用宗(もちむね)の駅周辺を確認して用宗港に行きました。


ちょうどお昼だったので漁協の直営店へ


「用宗しらす(もちむねしらす)」の釜あげしらすと生しらすの漬け丼。

用宗港近くの広野海岸公園から見た花沢山。海側は大崩海岸です。日本坂は右側です。日本坂は日本武尊ヤマトタケルノミコトが東征の折にこの峠を越えた、という伝承からつけられた地名です。