僕は静岡山岳自然ガイド協会に所属しています。
会では月に一度くらいの割合で研修があります。今回は僕が講師で韮崎の里山を歩いていただきました。ガイドだけではなく一般の方も参加したので総勢16人。ガイドのほうが多いのでかなりお得!?な山行だったと思います。
徳島堰(とくしませぎ)と茅ヶ岳
徳島堰
「釜無川の右岸地域は、甲府盆地の北西部、南アルプス連峰の麓に位置し、釜無川の段丘扇状地と御勅使川扇状地にまたがり、北部が水田地帯で、南部は春から秋にかけてたくさんのの果樹が実ります。この地域に欠かすことが出来ないのが延長約17キロメートルに達する県内最大の農業用水路「徳島堰」です。
この徳島堰は、江戸深川の人「徳島兵左衛門」により、上円井(韮崎市)から富士川舟運の起点、鰍沢(南巨摩郡鰍沢町)までの水路を開削し、荒地の新田開発と甲信駿河三国(現在の山梨県、長野県、静岡県)を舟運で結ぶという、壮大な構想から計画され、今から約340年前の1665年(寛文5年)2月に兵左衛門の私財により工事が始められました。
水路のほとんどが土水路で、石積みにより取水口を作り、河川など数カ所の難所を横断し、2年後の春には飯野南橋(旧白根町)まで通水させたのですが、この年に兵左衛門は、工事から突然手を引き、後の工事は甲府城代に引き継がれ、1670年(寛文10年)に工事が完成しました。
兵左衛門の舟運構想は実現されることはなく、何れに姿を消したのかは不明ですが、この工事の完成により、豊かな水が流れ、いたるところに美田の開発が進み、地域農民の生活は飛躍的な発展をとげました。この「徳島兵左衛門」の功績を称え「徳島堰」と命名されて以来、歴史の中で何度もの復旧や大改修が行われました。昭和に入り、上水道の整備や畑地かんがい施設の整備が実施され「月夜でも焼ける」と言われた干ばつ地帯を潤すことが可能となり、現在も釜無川右岸地域の農業や生活を支えています。」 農水省のホームページより
石の道標です。
集落の中ほどの徳島堰の脇にひっそりとありました。彫られた文字は、それぞれの面に進行方向の地名でした。僕らの進む方向には「青木鉱泉」とありました。鳳凰の登山口の青木鉱泉です。昔はこの前山を越えて行くルートが使われていたのでしょう。
簡単なところはどんどん歩きますが、現在地の確認と地形を判断するところはじっくり地図を見ました。普通の倍は時間がかかる感じです。
山の神の石祠を包むように木が生長してしまった・・・
明治45年の馬頭観音
食後のスイーツの定番!
やっていただきました!ダジャレみたいな`山ガ-ナ´
再び出発。下山の方が読図は難しいです。特徴のあるところは現在地の確認では外せません。
これは江戸時代の馬頭観音です。
立派な山の神の石祠
輝く茅ヶ岳
読図と地形読みのどちらも大切です。これで決まりということはなく、常に修正が必要です。そのためには、下ばかり見ていないで、常にまわりを観察することです!
地図読みと地形読みの、実際に山で使える技術講習は日程がつき次第募集します!
おたのしみに!
0 件のコメント:
コメントを投稿