僕のブログの中にも度々登場する「恩賜林」。山で出会う目印の標石、見たことありますか?
いったいこの恩賜林の本当の意味は何なのかということを、自分としても整理しようといろいろ調べてみました。山梨の山を歩くとき必ず押さえておかなくてはならないキーワードです。長くなります!
恩賜おんし⇒天皇・君主から物を賜ること。
恩賜林おんしりん⇒明治時代たびかさなる水害に苦しめられていた山梨県民のために、明治天皇が、明治44年3月11日県下の御料地のうち16万4千ha(台帳面積約298,200町歩)を県民の暮らしの復興のために御下賜された県有林のこと。山梨県の面積の約1/3を占める恩賜林。
恩賜おんし、結構近くにあります。上野公園の正式名称は上野恩賜公園ですし、井の頭公園も井の頭恩賜公園です。どちらも昭和天皇の結婚を記念して下賜(かし)されたものです。
写真は謝恩碑という、甲府の駅の横にある舞鶴城の一番高いところにある記念の塔です。かなり目立ちます。近くに行くとすっごい迫力です。
舞鶴城公園の中央部に高くそびえる尖塔型の石柱が謝恩碑です。
これは明治44年3月11日県内にあった御料地を、大水害によって荒廃した県土の復興に役立てるよう、明治天皇から御下賜(下賜かし、天皇など身分の高い人が身分の低い人に物を与えること。)されたことを記念して建てられたものです。
使用されている石材は甲州市(旧神金村荻原山)の恩賜林内から切り出されたものです。その採掘、運搬、組み立てには大変な苦労があったといわれていますが、大正9年御下賜10周年を迎える年に碑身が完成しました。
碑の高さ約18.2メートルで、謝恩碑はオベリスク型と呼ばれる古代エジプトに記念碑を、碑台は高さ7.4メートルのバイロン形と呼ばれるこれも古代エジプトに神殿の入り口に設けられた塔状の門の形を模したものであります。 (山梨県HPより)
この標識、山でよく見かけます。特にやぶ山ではしょっちゅう見かけます。山梨県の山の特徴でもあります。何を意味しているかというと、恩賜林の林班の境ということです。決して市町村堺を表すものではありません。
庶民の目線とお上の理屈、両方こなさないといけないのでなかなか大変な説明になります。
明治時代、水害に苦しめられていた山梨県民のために天皇陛下が下さった山林の恩賜林。先ほどの謝恩碑は「御料地の御下賜に対して県民はひどく感激し、いかに謝恩の意を表すかについて鋭意検討」の結果建設された、ということになっています。 「山梨県恩賜県有財産御下賜九十周年記念誌、平成14年発行」
結果御下賜ということになったとしても、その原因は?実はそこのところが大事なところです。なんで水害が頻発するほど山林が荒れてしまったのか?江戸から明治にかけて理不尽な理由があったのでした。
・入会いりあい
山林はこの山国に住む人々にとって、用材、燃料、肥料、飼料用の草木や落ち葉の採取、ウシの放牧などをする大切な場所でした。「入会山いりあいやま入会地いりあいち」と表現されます。昔から人々は山からの恩恵を受けていたわけです。入会山は集落の「掟」に従い利用されていました。その仕組みが確立されたのは武田信玄の時代です。「御林」制度と言われています。森林の整備を図り、集落ごとの採取区域を定め、山の入り口に取り締まり人(山口衆と呼ばれた)を配置するなどの森林管理制度でした。
・御林おはやし
江戸時代の官有林の総称。幕府の直轄林とともに諸藩の直轄林 (御山,留山,御建山) をもさす。御林守,山守,村役人などが管理した。入会 (いりあい) 山と違って,一般農民はわずかに雑木下草採取などが許され,盗伐,用益は禁止された。 ブリタニカ国際大百科事典
江戸時代中期、甲斐国は幕府の徳川幕府直轄領となります。①御林(幕府直轄林で、御川除林、御巣鷹山)②社寺領山林③入会山(小物成入会山、村落共同体が所有して産物を採取する山)④百姓林(いまの私有林のもと)と分けられていました。 1724年(享保9年)幕府直轄領になって明治維新までの約150年間の山林の統治です。
・地租改正ちそかいせい
明治の税制大改革です。地租改正がダイレクトに恩賜林と結びつきます。
江戸時代までは、藩や幕府に年貢として主に米を収めていました。いわば物納です。藩によって年貢の負担割合も違いましたし、何よりも明治政府は歳入不足が深刻でした。そこで個人の土地所有を認めて、地価の3%を税額として算出。「地租」を課すこととしました。物納が金納に変わったわけです。土地の種類は8種類と区分されました。皇宮地、神地、官庁地、官用地、官有地、公用地、私有地、除税地という種類です。旧幕府直轄林は官林として官有地に含められました。入会山は特定の所有者がいないということで、強制的に明治政府の「官有地」として没収されてしまいました。中央集権国家です。全国画一の山林管理を行うために、それまでの入会慣行による伐採を認めないというスタンスでした。入会地を利用していた人たちは当然納得できません。それまで同様に山に入り採取を続けました。県は取り締まりを強化します。
御料林ごりょうりん
地租改正により官有地になった入会山。同じ森林が明治22年から明治44年までは御料林と呼ばれるようになります。税制改革とは違う、皇室財産の安定化を目指したものでした。管理は宮内省御料局、明治18年に出来た機関です。御料局の目的は、皇室財産を確保し維持発展させること、官有であった山林・原野を御料林に編入して管理経営をすることでした。今でも時々山で見る「御料局三角点」はそのころのもので、当初、境界や面積が不正確であったため境界を査定し測量したということです。入会山に入る人々の権利は制限はあるものの守られていたようですが、御料林は山林経営です。収入第一主義の御料林経営で伐採事業は進められました。が、山を守る植林、造林事業は充分行われませんでした。多くの無林地が放置されるわけです。大水害が何度も起こりました。御料林時代の明治29,31,40,43年に起きた水害の被害は特にひどかったようです。堤防が決壊し、橋や家屋が流され、田畑が流出しました。4回の水害の犠牲者の数は460人余りにものぼりました。
恩賜林おんしりん
いよいよ恩賜林まで来ました!
度重なる水害被害の原因、それは御料林経営にありました。政府や県はその原因を入会山での盗伐だと責任転嫁しましたが、入会山での伐採はもともとあった権利ですし、総伐採量の一割にも満たないものでした。官林にしても御料林にしても、もともと入会林だったわけです。そこには集落の「掟」がありました。掟を破るようなことがあればそれは盗伐となるでしょうが、もともとの入会地に入って掟を守って行われる行為は盗人呼ばわりされる筋合いではありません。それが人々の思いでした。御料局は、山梨での強い入会権をなくして経営業績を上げようとしましたが、入会団体の強い抵抗でそれは叶いませんでした。御料林における山林経営の不振です。そこに度重なる水害です。御両局は山梨における御料林を持て余していたのでした。
結局、山梨における御料林経営をなかったものにしようという落としどころとして、たびかさなる水害に苦しめられていた山梨県民のために、明治天皇が、明治44年3月11日県下の御料地のうち16万4千ha(台帳面積約298,200町歩)を県民の暮らしの復興のために御下賜された県有林。山梨県の面積の約1/3を占める恩賜林。という流れになったのでした。簡単にいえば恩を売って御下賜するということになったのです。それが恩賜林です。
入会山が御林になり、官用林になり、御料林になり、恩賜林になったという歴史的な経緯ですが、最終的に恩賜林という名前の県有林になってしまった、ということです。恩賜林が下賜された明治44年から昭和21年までの36年間、入会地の(県有林になった恩賜林の)入会民の伐採などと取り締まるための林野警察制度を設けます。全国的に見ても例のないこと。全県下で70余名の巡査が配置されました。加えて、恩賜林の管理は、元々の入会権を持つの集落ごとに、恩賜林組合を作って管理させるということも強制的に決めました。
大正時代の南都留郡瑞穂村(今の富士吉田市の北側)の、渡辺瑳美村長の言葉が象徴的です。「自分たち入会民の財産を政府が無理矢理取り上げ、それを県に渡したのを今さら恩賜だからと言ってみても地元入会民には通用しない。そのうえ、自分たちの財産を使用・収益することが直ちに法律違反となって犯罪者にされたのでは『恩賜』どころか『怨視』である」
写真の石柱は三角点です。恩賜林には関係ないのに、境界のしるしだと思われて赤いスプレーをされてしまった三角点標です。入会とは無縁の現在でも入会地の境界線となる(結構矛盾していますが、恩賜林の境界と入会地の境界はほとんど同じです。)林班の境は、何年かに一度整備されます。ここはその意味を知らない人が整備したのでしょう。三角点標と林班の標識の区別がつかなくて赤く塗ってしまった…
謝恩碑の案内板にあった地図です。塗られているところが恩賜林だということ。
長々と書いてきました。山梨県、独特の恩賜林の意味をお分かりいただけたでしょうか?
入会地の境界線、恩賜林の林班の境は尾根ベースです。山梨のやぶ山を歩くと境界見出標を見かけると思います。そんな時、こんな歴史を思い出すとなんか特別な思いが沸き上がるかもしれません!
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