2017年11月21日火曜日

上高地の石碑

上高地ネタの今年の最後です。上高地をガイドするのに自分自身忘れないよう、上高地にある石碑のことを調べました。
岐阜県側からでも長野県側からでも、上高地はマイカー規制されているので、バスターミナルに着いてから登山が始まります。涸沢や槍ヶ岳に向かう道は梓川左岸に着いています。上高地バスターミナルを発って1時間弱で明神です。梓川に架かる明神橋を渡って梓川右岸にある嘉門次小屋です。上條嘉門次(弘化4年1847年170年前~大正6年1917年100年前)、上高地で猟師、樵(きこり)、山案内人として有名な嘉門次の小屋です。


嘉門次小屋の囲炉裏
シーズン中は燠おきの周りにぐるっと、くし刺しにした岩魚が焼かれます。奥の板壁には愛用の銃とウォルター・ウェストンから贈られたピッケル。


上条嘉門次は日本近代登山の父、W・ウェストン夫妻の山案内人として知られています。上高地で猟師をしていた嘉門次は、14歳にしてはじめてカモシカを撃ち、生涯でクマ80頭、カモシカ500頭は仕留めたと伝えられるほど、抜きん出た腕の持ち主の猟師でした。32歳の時には明神池のそばに自分の小屋を持ち、遠くは黒部まで足をのばすほど上高地一帯の地形を熟知していました。嘉門次の案内で槍ヶ岳に登頂したW・ウエストンは、とりわけ嘉門次の人柄と技術に敬服し、著書「日本アルプスの登山と探検」でも嘉門次をたたえています。すっかり評判になった嘉門次は、以降多くの有名人を山に案内しました。
上高地を愛した嘉門次とW・ウエストンの2人の親交は20余年におよび、友情の記念として贈られたピッケルが現在も残っています。(嘉門次小屋HP)


嘉門次小屋のご好意で実際に嘉門次が使ったといわれる、ウェストンから贈られたピッケルを手にすることが出来ました。ウッドシャフトのそれはとても軽く、現在のストックとほぼ同じように使われていたんだと思えました。


嘉門次のレリーフが埋め込まれた石碑。小屋の手前にあります。


梓川の流れと六百山。


上高地にある石碑の中で最も有名なのがウェストン碑でしょう。
「ウォルター・ウェストン(Walter Weston 1861年 -1940年)イギリス人宣教師。日本に3度長期滞在した。日本各地の山に登り『日本アルプスの登山と探検』などを著し、日本アルプスなどの山や当時の日本の風習を世界中に紹介し、日本山岳会誕生のきっかけを作った登山家。日本の近代登山の父とも呼ばれます。」


日本の登山界に尽くした功績を称え、日本山岳会が作製したウェストン碑。1937年(昭和12年)ウェストン77歳の喜寿を祝った物でした。滞在中日本のいろんな場所を訪れたウェストンです。関係者が事前にロンドンに住む本人に希望を聞いたそうです。ウェストン碑をどこに設置するかということです。「上高地が良い」と即答したそうです。上高地にウェストン碑が設置されるということを本人もはるかロンドンで共有していたというのは驚きです。ウェストンのお気に入りの場所が上高地だったのです。


ウェストン碑のエピソードはまだあります。製作者は慶応大学山岳部OBの佐藤久一郎氏。詳しい経歴はわかりませんが、㈱キャラバンを作った方だそうです。㈱キャラバンのはじまりは登山史の中の、日本山岳会マナスル登山隊から始まります。マナスル8,163 mは世界8位のネパールの山です。8000m峰の初登頂が各国の威信をかけた競争になっていた時代の国家的な出来事でした。4回目の遠征で成功するわけですが、アプローチのキャラバンで使いやすい靴をという要望に応えて佐藤久一郎氏が作ったのがキャラバンシューズでした。その後市販されるようになり、昭和30年代の登山ブームに貢献しました。キャラバンシューズは大ヒットしたのでした。佐藤久一郎氏は器用な人だったようで、オリジナルのウェストンも作り、その後傷みが激しかったウェストン碑を昭和40年に作り直して現在のものにしました。初めは四角いレリーフだったそうです。今は丸あるいものです。


ウェストン碑のもう一つのエピソード、太平洋戦争中の金属供出からウェストン碑を守った人がいました。茨木猪之吉(いばらきいのきち・静岡県出身・明治21年1888-昭和19年1944)です。明治末から昭和初期に活動した画家です。小島烏水 田部重治 木暮理太郎などの似顔絵は有名で僕も大好きです。昭和17(1942)年、茨木猪之吉によって外されたウェストンレリーフは極秘に東京に運ばれ保管されました。当時敵国だったイギリス人を顕彰する記念碑を保管するなどというが発覚すれば、実行責任者の茨木は非国民として生命も危うかったと思います。茨木猪之吉自身は、ウェストン碑が上高地の地に再び戻って来た終戦後にはこの世にはもういませんでした。昭和19年穂高岳白出谷で行方不明になったのでした。


上高地のバスターミナルから河童橋に向かう左側です。


内野常次郎の石碑。
内野常次郎 明治17年~昭和24年(1884~1949)岐阜県生まれの山案内人です。嘉門次に弟子入りして猟や山の生活を教わりました。いずれ一年を通じて上高地で生活するようになり山案内人としても実力を備え、昭和2(1927)年には秩父宮殿下が穂高岳から槍ヶ岳の縦走を行った際の案内人に選ばれました。後に「上高地の常さん」「上高地の主」と呼ばれ多くの人に愛された案内人だったそうです。槇有恒が「真実の人生に生きた 内野常次郎君 ここに眠る」と書いています。


最後に「山に祈る塔」です。大正3(1914)年に植林された、今のバスターミナル周辺の南のカラマツ林の中にあります。「昭和34(1959)年、長野県警察本部が遭難防止の願いを込め「山に祈る」と題する手記を発行したところ大きな反響があり、全国各地から寄付金が寄せられました。この趣旨に賛同した関係機関や各種団体が合同で「山に祈る会」を結成し、昭和37(1962)年慰霊碑が設置されました。その後、平成26(2014)年に建て替えられました。北アルプス南部地区において、不幸にして遭難された方々の霊を慰め山の安全を祈るため毎年7月1日に慰霊祭が開催されています。」


穂高連峰の界わいのモニュメントも横に設置されています。カラマツの枯葉が積もってました。江戸時代前期に始まった松本藩による木材伐採(元禄時代文です)。文政年間(1818年~1830年)には湯屋(現在の上高地温泉ホテル)が開業、その後上高地牧場(明治18年1885年)、養老館(現在の五千尺ホテル)や上高地温泉場(現在の上高地温泉ホテル)など宿泊施設が営業を始め、初代河童橋の設置など今日の下地となる産業・サービス業が開業。大正5年に上高地一帯が保護林に指定され、上高地は3世紀以上の長きにわたる材木供給地としての役割を終えます。大正時代には日本有数の観光地、僕らからすれば登山基地の上高地が出来あがったわけです。牧草地の名残が今でも徳沢のキャンプ場に見ることが出来ます。そこここで上高地の歴史を今でも実感できます。


上高地バスターミナルから北を見ます。六百山の末端の尾根の岩場、ゴリラ岩というそうです。僕は納得しましたがゴリラわかりますか?


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