ガイド協会のイベント「立山自然ふれあい集会2017」の帰り、寄り道したい場所がありました。北陸道の越中から越後に向かう難所、親不知です。親不知子不知おやしらずこしらずです。北陸道最大の難所、断崖と波が険しいため、親は子を子は親を省みることができないほど通過が険しい道だということです。波打ち際を行くしかなかった昔の旅人は命懸けで通過したようです。波間を見計らって狭い砂浜を駆け抜けて、大波が来ると洞窟などに逃げ込むんですが、途中で波に飲まれる者も少なくなかったといわれています。「大懐、小懐、大穴、小穴」というのは逃げ込む洞窟の名前です。約15kmの難所。
京都と新潟を結ぶひとけた国道、国道8号線です。親不知での国道8号線は四世代道路と呼ばれたりします。波打ち際を命懸けで通っていた時代が第一世代。明治16年(1883年)断崖を削って北陸街道(国道8号)がつくられたのが道第二世代。現在は親不知コミュニティーロードという名前の遊歩道として整備されています。天険トンネルが開通した昭和41年(1966年)が第三世代。写真がそれです。そして海上高架橋にびっくりする北陸自動車道が開通したのが昭和63年(1988年)で、第四世代です。
遊歩道の親不知コミュニティーロードにはウェストンがいます。富山から山梨に帰る途中ぜひ立ち寄りたい場所でした。
ウォルター・ウェストン(Walter Weston 万延元年1861年ー昭和15年1940年)イギリス人宣教師。日本に3度長期滞在した。日本各地の山に登り『日本アルプスの登山と探検』などを著し、日本アルプスなどの山や当時の日本の風習を世界中に紹介し、日本山岳会誕生のきっかけを作った登山家。日本の近代登山の父とも呼ばれます。
・明治21年(1888年)-明治27年(1894年)熊本、神戸に滞在
・明治35年(1902年)-明治38年(1905年)まで2度目の来日、横浜市に滞在
・明治44年(1911年)-大正4年(1915年)に再び横浜市に滞在
明治29年(1896年)「MOUNTAINEERING AND EXPLORATION IN THE JAPANESE ALPS(日本アルプスの登山と探検)」をロンドンで出版。「日本アルプスの登山と探検」 青木枝朗訳 1997年岩波文庫版の中の親不知登場を読んでみました。
明治27年(1894年)夏の7月から8月のだいたい1ヶ月で登った山は、 ・大蓮華(白馬岳)
・笠ヶ岳・常念岳(一ノ沢遡行)・御嶽山 ・身延山+富士川下り(富士川舟運盛んな頃で乗り物として船に乗ったわけです。御嶽山のあと権兵衛峠を越え甲州街道に入り韮崎から身延に出て富士川を岩淵まで下って、東海道線で神戸に帰りました。)という内容でした。
先ずは大蓮華と呼ばれていた今の白馬岳2932mを目指すのですが、そこまでのアプローチがなかなか面白いんです。直江津からの信越線が上野まで全線開通したのは明治26年のことでした。ウェストンはその翌年の明治27年(1894年)に上野から汽車に乗って「太平洋から日本海の岸まで、本土で一番幅の広いところをその日のうちに横断した」などと書いています。翌朝は船で直江津から糸魚川まで移動します。船旅は約3時間。糸魚川に着いて、雁木造り(雪国の雪よけのひさし)が連なる糸魚川の街並みにふれたり、なぜ冬の日本海側の地域は降雪量が多いのか?と気象に関する説明したりしています。そしてはっきりとした目的をもって親不知に向かっています。その部分を訳本から引用します。
「この花崗岩の絶壁こそアルプス山脈の起点であり、ここから真南へ約100マイル(160Km)の美濃平野(濃尾平野)まで行って初めて高度を失う。」 つまり北アルプス(飛騨山脈)はこの親不知が始まりなのでぜひ訪れよう!ということだったのだと思います。素晴らしい発想だと思います。
これは僕の想像です。ウェストンにとって日本に来て5年目のシーズン、単純に山頂に立つということに飽き足らず、北アルプスの全体像を理解したかった1ヶ月におよぶ山行だったのではないでしょうか。その全体像を意識したからこそ親不知スタートとなったのではないでしょうか。登山道なんてなかった明治時代です。その中で北アルプス北部の最高峰の白馬岳に登ること、最南端の御嶽山(すでに登っていたのですが、日本人の当時の講中登山の様子を事細かに観察、考察して記述しています。)は絶対に登ると強い意志を感じます。この山行で、それまで何度かトライして登ることが出来なかった笠ヶ岳にも登っています。この年の翌年にイギリスに帰って、「MOUNTAINEERING AND EXPLORATION IN THE JAPANESE ALPS(日本アルプスの登山と探検)」をロンドンで出版しています。北アルプス(飛騨山脈)にひと区切りつけたいと思ったから、その出発点の親不知にわざわざ訪れたのだと思います。大蓮華(白馬岳)に直接行かないで、糸魚川でもう一泊しています。2度目の日本滞在中の登山記である「The Playground of the Far East1918年」日本語訳「日本アルプス再訪」では南アルプスの登山記が中心です。
明治16年(1883年)断崖を人力で削って北陸街道(国道8号)がつくられた国道8号線が、こんな感じに親不知コミュニティーロードとして整備されています。ここをウェストンも歩いているわけです。
晴れていればということなんですが・・・
ウェストンとの関係はわかりませんが、北アルプスの主稜線からダイレクトに、ウェストンも出発点にした親不知の海岸に通じる道です。栂海新道つがみしんどうの出発点です。
もう一か所訪ねたい場所に向かいます。夕闇が迫って焦ってました。青海黒姫山おうみくろひめやま1221mに陽が沈んでしまいました。
雪がついた雨飾山が見えました。左の黒いでっかい山は駒ヶ岳。
糸魚川を発ったウェストン一行は、糸魚川から歩いて今の大糸線の平岩集落まで来て泊まります。その宿が当時の小滝村村長の中倉利忠治の家。
案内板の当時の写真。家の屋根の様子や、馬がいること、日本人のつけている大きな菅笠(大きすぎる笠だとウエストンは言っています。)、大八車なんかが当時をものがったている写真です。
ここから大所川の難路を蓮華温泉に向かって歩き始めたウエストン一行。1日かけて蓮華温泉まで行き、そこに泊まり翌日大蓮華、白馬岳に登ります。稜線に出て富士山が見えたなどと書いています。もう一泊蓮華温泉に泊まって翌日下ります。
そのまま平岩の長倉村長の家に立ち寄り会話して旅を続けます。そこらは淡々と書かれています。上野から直江津の汽車、鰍沢から富士川河口に近い岩淵の船旅以外はすべて歩いている旅です。写真は現在の大糸線の平岩駅です。
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