2018年5月14日月曜日

節刀ヶ岳

節刀ヶ岳は(せっとうがたけ)と読みます。1736mの山頂は甲府盆地と富士北麓を隔てる御坂山地のほぼ中央にあって、どこから見ても小さな三角錐の形のいい山頂は同定し易い山の代表格です。御坂山地を越える南北を繋ぐ峠道はたくさんありますが、御坂峠と中道往還の重要な峠道の間にあるのが大石峠です。若彦路と呼ばれる古道です。


御坂山地の魅力の一つに富士山の存在があります。富士山のすぐ北の山々なので大きな富士山の存在が迫力です。芦川の駐車場からしっかり登らされて、稜線に出て初めてどっしりした富士山に会えるという流れが好きです。古い林道を登っていよいよ登山道か、と思われたのですが、どうも古い道は崩れていて小さな尾根の道は歩きにくいものでした。


ヒゲネワチガイソウ 髭根輪違草


ほとんど終わっていて、かろうじて咲いていたカタクリ。


まだ残っていたウスバサイシンの花 薄葉細辛


古い峠道なので楽に登れると思っていたのに少し様子が違いました。標高1200mくらいの場所、今のマーキングされた登山道は昔の道とは違っていました。沢筋なので少し荒れています。あたらしめのマーキングされた尾根の道を1300mまで登ると昔の道が現れました。幅広の傾斜を殺した、馬も通っていたかもしれない立派な道です。新しい尾根道ではなく、昔の道は沢筋からこの場所に通じているようでした。


地形図の登歩道は実際とはちょっとずれています。正確ではないということです。峠手前の写真です。いよいよ富士山登場の場面、曇っていたら会えない富士山、峠に上がらないと答えは出ません。峠に着くということは尾根に上がるということです。


曇りがちではありますが富士山登場。大石峠に到着です。


御坂山地の主稜線。小さなアップダウンが続きます。


時々展望が開ける尾根です。十二ヶ岳の先に河口湖。右奥には山中湖。高低差がわかります。


南に開けた節刀ヶ岳山頂。


マメザクラと富士山。下り坂の天気予報でしたがずっと顔を出してくれていました。


富士山アップ。


炭焼き釜の跡。こういうのは主稜線にはあまりありません。だいたい集落からは遠いし通うのは容易なことではありません。普通、炭焼き釜の跡を見るのはずっと里に近いところですが、御坂山地の稜線にあったというのはちょっと驚きでした。


もっとびっくりしたのはこの写真、先ほどの炭焼き釜近くに落ちていた湯のみです。なんと「支那事変記念」と書かれていました。満州事変から支那事変、1941年12月8日の真珠湾攻撃につながる歴史が登場した稜線でした。第二次世界大戦です。支那事変が起きたのは1937年(昭和12年)、昭和20年8月までの間の短い時間の中で戦意高揚がダイレクトに伝わる湯のみです。御坂山地の稜線で炭焼きをしていた人が、おそらく毎日通うことが難したったので、簡単な小屋掛けをして稜線で暮らして炭焼きをしていた。水も運び上げなければならない稜線です。炭焼きという日常と、始まった戦争。結構得意げに使っていた湯のみだったのじゃないかな?と思いました。やはり今でも山と人の暮らしはダイレクトに通じていると思います。若彦路の古道の話がぶっ飛んでしまうような湯のみでした。


ニオイタチツボスミレ だと思います。


もう終わりのエイザンスミレ。


ちょっと変わった感じのヒメイチゲ。ちょっと違いました、ツルシロカネソウ蔓白銀草
単にシロカネソウという別名でもいいようです。 


同じルートのピストンでした。林道まで下って暫くして雨が降ってきて、最近天気予報当たるね、って会話になりました。



0 件のコメント:

コメントを投稿