観音堂よこの岩壁の下の百体観音。「秩父三十四観音菩薩碑」「板東三十三観音菩薩碑」「西国三十三観音菩薩碑」で百体観音です。一番右に弘法大師像。
20~30mはあるであろう岩壁の下にきれいに並べられた観音像。伊那高遠の石工が彫ったと言われています。
稜線に上がったところが十二丁目の仙人ヶ岳と呼ばれるピークで、昭和天皇が摂政宮(せっしょう・即位前で大正天皇の代役のような立場)であった時代に登頂し、そこで野点をしたということです。大展望が広がっていて、すぐ下が香坂の集落。
閼伽流山城跡の城址碑
三等三角点 点名「燕ノ城」868.2m
県道からも見えていた岩稜部。周回ルートにして、どこを下るかを下から見て決めた尾根でした。ロープを使うところまでは難しくはありませんでした。
『市川一族は、甲斐国の武田信玄に仕えていたが、武田氏が滅び主を失った。信濃の国と甲斐国の要所であった南牧の地を収める市川家を家臣にしたかった徳川家康は、父の真久(さねひさ)を江戸城に呼んだが、父は、代わりに22歳の五郎兵衛を江戸城に向かわせた。家康の前で五郎兵衛は、「志すでに武にあらず、殖産興業にあり」と答えたため、家康の領土で土地の開発を認めるという朱印状を与えられた。その後南牧の地で、砥石の採掘で私財をためる。その後市川五郎兵衛は、佐久平で常木用水、三河田用水、五郎兵衛用水の開発で新田を作った。』 五郎兵衛記念館・館長の豆知識より
五郎兵衛用水などで新田が出来て、江戸時代からお米の産地としての佐久地方となります。そのことと上信国境の多くの峠の存在がリンクします。上信国境の多くの峠を越え佐久の米が上州に運ばれるわけです。五郎兵衛記念館の館長、根澤茂さんの熱弁は忘れられません。
佐久の宿では鯉料理を堪能しました。鯉の南蛮漬け。
鯉のあらい。
鯉の旨煮。
五郎兵衛用水で収穫されたお米はブランド米です。あまり知られてはいませんが、米造りに適した土壌ということを五郎兵衛記念館の館長さんに教えていただきました。この日の宿の夕食のお米は五郎兵衛米ということでした。
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