群馬に家族の用があり先日出掛けました。時間があったので利根川を越え埼玉県深谷市へ寄りました。生家をはじめ多くの渋沢栄一ゆかりのものが残されています。この立派な建物は渋沢栄一記念館です。
野菜の生産が盛んな深谷市、代表は深谷ネギです。記念館入口で売られていた深谷ネギは春ネギだそうで、春が一番柔らかくておいしいと言っていました。
来年から一万円札の顔は渋沢栄一です。
「青淵せいえん」は渋沢栄一の雅号(文人・画家・書家などが本名以外につける風雅な名前)です。「青淵翁誕生之地」は幸田露伴の揮毫でした。
渋沢栄一の生家「中の家」。深谷市北部の利根川沿いの村々では藍をたくさん栽培していました。渋沢家も藍を栽培し、染料となる藍玉を製造していました。さらに、藍を栽培している農家から藍を買い付け、作った藍玉を秩父や上田、佐久の紺屋(染物屋さん)に販売していたのです。幼い頃から、農業や工業、商業、そして金融業を兼業する父の姿を見ながら育った渋沢栄一です。渋沢家は年商一万両、現代でいえば10億円と言われています。
屋敷の中の土蔵は大谷石を積んだ半地下で、藍玉の製造と貯蔵に使われていたそうです。その藍玉を年に何回か秩父や信州に販売に行っていました。渋沢栄一伝記資料の中の「雨夜鐔談話筆記」の中に筆談形式で香坂峠遭難記のようなものが書かれています。これが香坂峠と渋沢栄一が結びつくエピソードです。真冬に佐久と関東をつなぐ脇往還の香坂峠で道に迷い、疲労凍死寸前であったのを香坂集落の老夫婦の手厚い介護により一命を取り留めています。
「中の家」の若かりし渋沢栄一像。上州から藍玉を信州に売りに行ったわけですが、お得意様は約50軒だったそうです。逆に信州からは米が上州に運ばれました。西上州は山間の集落が多く稲作に適した場所は少なかったのです。佐久平は戦国時代の終わりから新田開発が盛んに行われました。中でも有名なのが、五郎兵衛用水を作った市川五郎兵衛です。
市川五郎兵衛:『市川一族は、甲斐国の武田信玄に仕えていたが、武田氏が滅び主を失った。信濃の国と甲斐国の要所であった南牧の地(群馬県南牧村なんもく)を収める市川家を家臣にしたかった徳川家康は、父の真久(さねひさ)を江戸城に呼んだが、父は、代わりに22歳の五郎兵衛を江戸城に向かわせた。家康の前で五郎兵衛は、「志すでに武にあらず、殖産興業にあり」と答えたため、家康の領土で土地の開発を認めるという朱印状を与えられた。その後南牧の地で、砥石の採掘で私財をためる。その後市川五郎兵衛は、佐久平で常木用水、三河田用水、五郎兵衛用水の開発で新田を作った。』佐久市立 五郎兵衛記念館
西上州南牧の砥沢は刃物を研ぐ砥石の産地でした。市川五郎兵衛は砥石事業で資金をため私財をなげうって佐久平の新田開発をしました。その考え方を渋沢栄一も共感しています。時には砥沢の宿屋(羽沢館)に逗留し市川家の六代目とも交流しています。砥沢からは星尾峠を越え内山峡経由で佐久入りしました。 藍と藍玉の写真は「中の家」の展示です。
生家裏の青淵せいえん由来之跡の碑。周辺は青淵公園として整備されています。渋沢栄一は倒幕計画を企て、断念し京都に出る23歳まで家業をやりながら、中国の思想書や歴史書、日本の歴史書を習得し、教養を身に付けまた知性を磨いていきました。
国指定重要文化財「誠之堂せいしどう」
埼玉県指定有形文化財「清風亭」
ステンドグラスが素敵でした。
天井は漆喰のツルと雲。
喜寿のお祝いなので`寿’の鏝絵
ものすごいボリュームに思えた深谷駅の駅舎。
駅のロータリーにも青淵せいえん
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