2025年2月20日木曜日

日本平

中部横断道の東名清水JCT手前の下り坂からドンピシャで見えた日本平です。うっすらですが山頂の立派な電波塔も見えます。電波塔の左が最高地点の有度山標高306.9m山頂です。車でも行けるし、静岡を代表する観光地の山頂部です。こういうところが最近気になります。もう11年前に上野さんのお手伝いをした時以来の日本平です。

静岡市民ではないので、どこに車を停めるか?となりますが、静岡県立美術館の駐車場に停めさせていただきました。いちおう利用時間は大事です。様々な公共の施設がある日本平です。


国土地理院の地図がベースで行動します。ベースという意味は情報量が多くないので、Googleマップなどで補完します。ただ、地形の判断はやはり地理院地図です。美術館の遊歩道から南に下る道は地理院地図には書かれていませんでしたが、これは感みたいなもので、行ってみたらしっかり南に下るトレースがありました。


南に下りて吉田川の橋を渡ったらあった案内。


梅やスイセンが咲いていた吉田川沿いの道。


平澤寺へいたくじ、行基上人が710~13年に地蔵尊を彫刻してここに草庵を建てたのが始まりで、ついで718年にのちの聖武天皇の病気治癒を願って駿河で7体の観音像を刻み、最初の一体をこの平澤寺に安置されたということでした。


山中に多くのサイン、案内板がある日本平です。写真は静岡県のものだと思いますが、なんかとても見にくいと思ったのは方角の北を無視しているからだと思います。いちおう方位は示されていますが、場所によって違うのでわかりずらい…


平澤寺の墓地の先から山道に入ります。読み取れないけど、東とか左と頭に書かれているので道しるべだということはわかります。


小さな沢地形を越え、尾根に向かって登りになって登場する切通し。
2016年の『静岡市発行・久能山誌』という本の中に引用されている、『駿河記・詳細な実地調査を繰り返し、丹念に考証して駿河全郡を記した地誌と言われる 文政3(1820)年』の中に、『平澤寺は鎮守十二所権現が久能寺と同じ祭神を祀っており、中世には久能寺末寺の天台宗の寺院として存在していたものと思われる。本堂左側に久能山越道があったことから、久能寺の北西側入り口を守る存在であった。』。平沢から駿河湾に面した久能山へ至る、久能山越道ということなのだと思います。


えぐれた道の小さな小石が堆積した礫岩は、静岡市の西で海に注ぐ安倍川の堆積物からでしょう。丸みを帯びた小石はそのまま安倍川の河原に行けばごろごろしていそうです。長い年月をかけ隆起した日本平です。何とも不思議な切通しです。


再び道しるべ、左はお寺なのかよくわかりませんが、右ははっきりひらさわと読めます。礫岩の切通しが、いろんな里山で出会う昔の仕事道とは違う雰囲気に感じる、ということの答えが久能山越道ということかもしれません。今の久能山東照宮の久能山にあったといわれる久能寺は武田信玄によって清水に移転させられ鉄舟寺になり、久能寺は山城になり、駿府に隠居していた家康の遺言により埋葬され東照宮が創建されました。そんな時間の流れから理解できる礫岩の切通しのみちです。


近代以降様々な開発が行われてきた日本平が、いつから日本平と言われるようになったのか?2018年にできた日本平夢テラスの案内には、江戸の後半の安政年間(1854年~安政→万延→文久→元治→慶応→明治元年1868)の記録に初めて登場と書かれていました。その後、大正時代に徳富蘇峰(ジャーナリスト、思想家、評論家、歴史家)さかんに宣伝したことにより定着した日本平です。


日本平のなだらかな山頂部の一番高いのは有度山306.9mです。二等三角点のある山頂に登山道はないようです。


建築家隈研吾の作品、日本平夢テラス。


小腹がすいてお茶たい焼きを。生地にお茶が入った風味のあるたい焼きでした。


日本平の日本はヤマトタケルです。日本武尊が東征の際に野火の難にあったものの、草薙の剣の力もあって賊を平定した後、この山の頂上に登り四方を眺めたところからこの名で呼ばれるようになったそうです。右手に持っているのがまさに草薙の剣です。


日本平で一番大きな建物、日本平ホテルです。


日本平ホテルのロビーから見た富士山と清水港。まるで絵画のように素晴らしい景色でした。


サクラが咲いていました。種類はわかりません。河津桜ではないようです。


日本平のハイキングコースは東海自然歩道のバイパスルートだそうです。1974年(昭和49年)7月に完成した、全長1,697 kmの東海自然歩道はなかなか曲者ではあります。


宮加三、船越、馬走、草薙、美術館、動物園と日本平に向かうコース設定がされています。草薙コースと馬走まばせコースの分岐で見えた富士山とお茶畑。駿河湾に面した久能山東照宮側にルートがないのは「屏風谷」と言われる崩壊地で、昭和の時代にはあったハイキングコースも崩れてなくなってしまったそうで、唯一の交通手段が日本平ロープウェイだということです。


みかんの種類はわかりません。


日本武尊(ヤマトタケルノミコト)を祀る草薙神社。もともと『天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)』と言われた草薙剣は名古屋の熱田神宮にあるそうです。日本書紀に、『天武天皇が病に倒れた際に草薙剣の祟りだと占われ、尾張の熱田社へ送って安置した』と書かれているそうです。


山梨県民の僕が前から気になっていた静岡で有名なスポットも行ってみました。天神屋は静岡県内だけに展開するお弁当屋さん。28店舗もあるのは静岡県が広いからでしょう。


おむすびとおでんで有名で、おでんは当然、静岡おでんです。しぞーかおでんかな?営業時間が6:00~23:00というのもコンビニ並みです。


夕食は『炭焼きレストランさわやか』のげんこつハンバーグ。こちらも静岡県民にしかわからないファミレスでしょう。静岡県内だけに展開している34店舗です。どっぷり静岡に浸った日でした。



2025年2月16日日曜日

冬の西沢渓谷 

所属する静岡山岳自然ガイド協会の研修のテーマはアイゼンワーク。とりあえず手持ちのギアや、歴史を感じるシュイナードのアイスクライミング(1980年出版)などの話をして出発しました。坂下直枝さん訳のこの本では、アイゼンワークはフロントポイントとフラットフッティングのふたつなんだということがわかります。シュイナードはパタゴニアの創業者で、坂下直枝さんはロストアローの社長なんて話も僕が歳を取ったからできることだと思いました。


10年に一度の最大で最長の寒波で…なんていうのは日本海側や北国の話しでしょう。ここ甲斐の国は暖冬継続中のいつもの冬ですが、部分的にはこんな様子の林道歩きから始まる西沢渓谷です。


冬期閉鎖の看板はありました。このエリアの行政区分は山梨市です。冬期閉鎖の看板の地図が、山梨市で有名な温井さんのイラストマップというのが微笑ましかったです。


笛吹川上流の西沢と東沢の二俣に架かる吊り橋から見た鶏冠山。山梨らしい青空です。


寒々しい渓谷の様子


急遽頼まれたピンチヒッターだったのですが、寒いところが嫌いな僕は風や雪やいろいろ厳しい条件を排除して、シンプルにアイゼン歩行に特化するということで、アイスハイキングとも呼べる西沢渓谷での研修でした。氷った遊歩道は確実なアイゼンワークが求められます。でも、アイスハイキングって言えばなんとなくいろんな展開になる可能性を感じます。写真のような氷った場所はアイゼンがないと安全には歩けません。


写真の左斜面が山側、右が谷川です。アイゼンをフラットに置くのにどういう風にということがわかりやすく展開するシュチュエーションです。


橋の手前の斜面が目的地でしたが、全く氷っていませんでした。ある程度低温にはなっている今冬ですが、圧倒的に雨、雪が降っていません。なので染み出しがなく氷も張らなかったということでしょう。山梨は暖冬かつ異常乾燥状態です。


西沢渓谷のシンボル、七ツ釜五段の滝です。


40~50度の傾斜のアイス斜面が西沢渓谷本流を渡った対岸にありました。対岸に渡れたのはラッキーでした。氷った斜面にトップロープを3本セットし、安全を確保してあくまでフラットフッティングにこだわってトライ。アイゼンの爪を効かせないと安定して歩けないという中でのトレーニングです。


トップロープの支点はVスレッド(アバラコフ)。今回はアイスクライミングではないのですが、支点となる立木がないところでも氷ってさえいれば(氷に厚みがないとダメですが)作れる支点です。アイススクリュー一本と細引きとほじくり出すスクリューの穴に入るフックがあれば作れます。クライミング用のナッツキーが使えたのが面白かったです。


雪山も夏山も「歩くこと」が基本です。ただし雪山の場合は、雪や氷の上を歩くための歩行技術が求められます。アイゼン歩行は前爪を利用するフロントポイントとフラットフッティングの2つです。斜面の角度によって様々な足の置き方があるのがフラットフッティングです。どちらにしてもピッケル(ストック)との組み合わせになります。


それぞれ持ち寄ったピッケルのピックの形状や長さなどを比較して刺さり具合を確認したりしました。


最後に登場するVスレッド(アバラコフ)の説明です。
アバラコフ(英語;Abalakov thread、V-Thread、別名:Vスレッド)とは、アイスクライミングを行う際に支点を作る技術、ロシア人の登山家ヴィタリー・アバラコフに由来する。
作るが簡単で、適切に行えば非常に安全な支点を確保できる技術である。この便利さと安全性から、アイスクライマーからは、アイスクライミングの革命と言われる。 
アイススクリュー(21cm以上)を使用して、丈夫な氷の壁に2か所V字状に穴を開けて(きちんとV字になるよう誘導するギアもある。)、スリングを通して、ダブルフィッシャーマンを作れば完成である
スクリュー1本より圧倒的に強いVスレッド・アバラコフと言われる。  wiki         


2025年2月10日月曜日

栗子山

森吉山の山行の後、せっかく北東北まで来たのだからと、八甲田山まで行ってみました。今冬最強最長の寒波がやって来る!とさかんにアナウンスされていましたが特に問題なく津軽平野に入ったら津軽富士、岩木山の出迎えでした。


酸ヶ湯は積雪4mと言われ、国道103号の両側はどこよりも高い雪の壁でした。八甲田ロープウェイで森林限界に上がって樹氷と思って行ったわけでしたが、しっかり運休…
どうもロープウェイの稼働率はだいたい5割くらいみたいで、山頂駅の強風は麓ではわからないのでなかなかだと思いました。その後ロープウェイの運行を追ってみましたが、5日間くらい動かなかったようです。


仕方がないので三内丸山遺跡に行きました。縄文遺跡の集落跡です。弘前に宿を取り、翌日弘前の街を散策して米沢に移動しました。山形県です。ちなみに夜の間の降雪は40㎝くらいだろうと言われましたが、弘前は雨の朝でした。


米沢の朝のニュースは雪、雪、雪。


道路と歩道の間にある雪の壁は、見えている車の屋根でわかると思います。右折にしろ左折にしろ駐車場や細い道から出るのは見づらいわけです。当然雪の壁から一歩前に出てくる車が多いので慣れないと難しい雪国のドライブです。


時折雪が降る中、目的を栗子山ではなく栗子隧道に変えました。前日は青森からグーグルマップに言われるままに米沢入りしました。東北自動車道を南下して福島に入り、東北中央自動車道で西進して米沢に入ったのですが、途中とてつもなく長いトンネルを通りました。知りませんでした、栗子トンネルです。8,972mで、なんと道路トンネルで全国第5位の長さのトンネルでした。そして東北中央自動車道の栗子トンネルは、山形と福島県境の栗子山を貫くトンネルの第4世代ということでした。第1世代のトンネルは1881年(明治14年)です。写真は第3世代の国道13号です。万世大路のストーリーです。


東北中央自動車道ではなく国道13号を通ると萬世大路、または万世大路というサインが出てきます。山形から福島に通じる交易の道です。
【萬世大路(ばんせいたいろ)は、国道13号のうち福島県福島市から山形県米沢市に到る区間の愛称である。現在の表記は「万世大路」であるが、ここでは区別のため以下の表記を使い分ける。
・萬世大路 :明治14年に開通した明治国道、それを引き継いだ大正国道5号→国道13号旧道
・万世大路 : 現在の国道13号  wiki 】
国道13号から栗子川沿いの道を進み、米沢砕石(株)の駐車場に車を停め、事務所で入山時刻の記入をするルールです。もちろん帰りに下山時刻の記入も求められます。


スノーシューを履いて歩きました。深いところで膝下くらい。万世大路は車も通っていた道なので、人が歩くだけのものより幅はしっかりあります。


長坂と書かれた標識。ほかのものはほぼ雪に隠れていました。


一瞬青空がのぞいたりでしたが、15mくらいの風と断続的な降雪が続きました。


栗子山の稜線は雪雲の中、稜線の向こうは福島です。


栗子隧道の米沢側です。4世代にわたって行われた栗子山の下の道路整備、人馬が物流の主役から自動車に代わって時代とともに推移していくわけです。人馬から時代を進めた人物は明治になって山形に赴任した初代山形県令 三島通庸 (みしま みちつね)の存在だと思います。県令は今でいう県知事です。藩政から明治になってすっきり山形県になったわけではないのでしょうが、三島は強引に道路整備を進め栗子山隧道を通しました。約870mの隧道トンネルは当時としては国内最長クラスだったそうで、掘削するのに当時世界に3台しかないアメリカ製の掘削機を使ったといわれています。


栗子隧道の扁額。萬でも万どちらでも良いのですが、なんでそんな仰々しい名前の道なのかというと、【1881年(明治14年)10月3日に明治天皇の行幸を迎えて開通式を挙行した。天皇は福島県側も含めたこの新道に対し、翌明治15年に「萬世ノ永キニ渡リ人々ニ愛サレル道トナレ」という願いを込めて「萬世大路」と命名した。wiki 】ということです。道路整備の最先端の隧道だったのでしょう。天皇陛下に頂いた名前の道です、有難みは今では考えられないくらいの影響があったと思います。米沢にも福島にも万世という町名があるくらいです。


栗子隧道の入り口は雪壁になっていました。ロープを持ってて良かった~!


ネットの情報だけでは実感できない万世大路です。1972年(昭和47年)には落盤が起きて閉じられた隧道だそうです。なので半世紀前の道を歩いてきたことになります。


隧道の中の氷筍を目当てっていうのもあるそうです。タケノコのような氷です。


栗子隧道を出ると吹雪でした。最後に栗子山隧道と栗子隧道の山が付くかつかないかの意味ですが、【栗子山隧道の山形県側の坑口は、雪の吹込みを避けるために曲げられていた部分を直線的に掘り直したため、山形県側には明治と昭和の坑口が並ぶことになった。隧道名も栗子隧道と改称された。wiki 】積雪で確認できなかったけど、トンネルの入り口が2つ並んでいるみたいです。


羽州街道や奥州街道とはちょっと外れていますが、万世大路、おもしろかったです。福島に出た東北道は太平洋側の天気になるのでばっちり青空でした。それでも奥羽山脈は荒れた天候の様でした。安達太良山方面の写真です。