角館に着いて街の西側を流れる桧木内川(ひのきないがわ)沿いを歩いているとハクチョウがねぐらに帰る姿を見たりして、北国に来たなぁ~と実感。翌朝の角館武家屋敷通り。森吉山阿仁スキー場ゴンドラの運行時間に合わせ早朝に宿を出ました。
角館からの国道105号線はきれいに除雪されていました。雪国に住む人にとっては当たり前かも知れませんが…
スキー場に向けて標高を上げると、幅広のボブスレーコースのようになった道路。圧雪された道路を走る経験は山梨のドライバーにはほとんどありません。
阿仁スキー場ゴンドラの開始を待つ行列。3割くらいが登山者で、当然ですがあとはスキーヤーやボーダーです。
ゴンドラ山頂駅を降りてスノーシューをはいて歩き始め、ひと登りで石森という小ピークに登り展望が広がります。夏は高層湿原で木道の登山道です。
雪国の山はほんっと天気次第で行動範囲が決まるということが理解できた森吉山でした。ラッキーなことに午後に向けて天気が良くなるという天気予報でした。
絶好の天気に多くの登山者が阿仁スキー場ゴンドラに乘ってこの高地に来ているわけです。
かろうじて屋根だけが出ていた阿仁避難小屋。280㎝のプローブで積雪量を確認しようとしましたが、プローブの先端が地面にタッチすることはありませんでした。
スノーモンスターは素晴らしかったです。
雲が広がったり、青空が顔を出したり忙しい空模様。
このでっぱりが森吉山山頂。
多くの登山者がエビのしっぽを落としてくれていて、しっかり山頂標識を確認できました。
森吉山の樹氷原。
阿仁スキー場ゴンドラの駅まで戻ってきました。スキー場スタッフの方が樹氷が出来る仕組みを説明してくれました。樹氷教室とアナウンスされていました。樹氷ができる5つの条件というのが興味深いものでした。やはりアオモリトドマツ(オオシラビソ)主役です。
①アオモリトドマツが自生している
森吉山を下り、阿仁合の阿仁異人館・伝承館に行きました。阿仁がどんなところなのかということを少しでも知るためです。鎌倉時代の1309年(延慶2年)に発見された阿仁鉱山を中心に発展していった阿仁地区です。金、銀、銅の採掘で栄えた阿仁鉱山です。(1970年(昭和45年)に休山)。以前は銅の生産量が日本一だったこともあったそうです。この洋館は明治のお雇い外国人、鉱山技師アドルフ・メツゲルらの居宅として建築された建物で、当時西洋建物の象徴といわれた、鹿鳴館やニコライ堂より早い時期に建てられています。
2年前にも訪ねている場所ですが、運営団体がかわったのか現在は無料です。
1991年(平成3年)に建てられた「阿仁鉱山を偲ぶ会」の碑。阿仁六ヶ山が彫られていました。一の又、二の又、萱草、小沢、真木沢、三枚の6銅山(六ヶ山)です。秋田内陸鉄道阿仁前田温泉駅あたり(合併する前の森吉町)で阿仁川に合流する小又川(上流に森吉山ダム、森吉ダムがあり)に鉱山はあったのでは?というのは僕の思い違いで、地図を良く見ると6銅山のうち、小沢鉱山、萱草鉱山は国道105号線から阿仁スキー場に至る荒瀬川沿いでした。この朝の阿仁スキー場ゴンドラに乗るために走った道です。その道で納得したのは雪に埋もれることなく読み取れたいくつかの橋の名前です。「寛文坑橋、長松坑橋」坑道の坑という漢字が登場していました。なるほどです、阿仁スキー場への道はもともと鉱山への道として使われていたものでしょう。
【1955年(昭和30年)、阿仁合町と大阿仁村が合併し阿仁町となる。山深い谷に狩猟生活をする阿仁マタギの集落が点在していたほか、1309年(延慶2年)に発見された阿仁鉱山の金、銀、銅の採掘で栄えた。 wiki 】この日は打当川(うっとうがわ)沿いのマタギの湯に泊まりました。
マタギの湯は阿仁地区のアイデンティティとしてのマタギ文化を旅行者として感じられる宿泊施設です。夕食では兎鍋とどぶろくをいただきました。
翌朝のすさまじいツララ。気温が高めなんだと思いました。
マタギの湯に併設したマタギ資料館の見学をして秋田を離れました。早朝7時から開館していて、入館はマタギの湯から入るので、この入り口から入ることはありません。宿泊者は入館料200円は取られませんでした。
学芸員が常駐しているわけではなく、QRコードを読み込んでの音声案内は感心しました。今どきですけど。
マタギにまつわる様々な事柄が17項目にわたって音声解説がされました。
マタギの湯の駐車場に再現されていたマタギ小屋。冬から早春にかけて、奥深い山の中でクマと対峙していたマタギの暮らしぶりの一旦です。
秋田を堪能した森吉山の山行でした。マジ、冬はいろいろ大変です…
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