上高地への峠みち、徳本峠(とくごうとうげ)に行ってきました。道としては信州と飛騨を結ぶ道で、焼岳の北の中尾峠に通じています。徳本峠と中尾峠の間に上高地があります。日本の登山史にたくさん登場する徳本峠です。長いルートなので現在の出発地点、島々の宿に前泊しました。島々山荘は集落の古民家を活用した登山者向けの宿です。
梓川の支流、島々谷川の林道歩いて二俣を目指します。夜明け直前まで降っていた雨でかなりウエットでした。
僕は山梨県民なので詳しくはありませんが、長野の山で時々出くわす「止め山」という言葉。その止め山が詳しく説明されていました。島々谷きのこ組合の組合員以外は勝手に野生のきのこを採ってはいけないということです。
ゲートがあるにもかかわらず、まだ暗いうちに越して行った軽トラが停まっていました。きのこ採りか、きのこ採りの監視かだと思いました。
その先の右岸で通行止め。土砂崩れでそこから先に車は入れません。この崩れはだいぶ前のものでしょう。崩れの先の林道は半分自然に帰っていました。
島々谷川二俣。林道途中にある発電所に水を送る取水口です。
島々谷川二俣で北沢と南沢に分かれます。流れの合流点が見える場所に行くと道しるべがありました。写真の石です。右~~~、左~~~書かれた言葉はわかりませんでしたが左右はわかりました。北沢方面には基礎があったので、吊り橋があったんだろうなと思いました。
徳本峠への登山道は南沢です。二俣までは林道です。南沢入ると古い峠道の風情でした。
本流には立派な橋が架かっています。これは「行き橋」。地形図を見ると徒歩道が本流を渡って対岸に行く様子がわかります。橋の記号は書いていないけど、本流を渡る場合は必ず橋があります。そこで現在地がわかります。
橋や木道で補強された道ですが、かなり滑ります。
ざらついたテープが施されていますが、いかんせん小さく、とにかく滑ります。
右岸の下女沢を過ぎて登場する崩れ。ここ何年にもわたって開通、復活、通行止めを繰り返していた場所です。山側を大高巻きのルートが整備されているようですが、島々山荘の方に教えていただいた通りトラロープをくぐって真っすぐ行きました。
写真ではわかりませんが、しっかりしたステップと、硬い岩には鎖が設置されていました。歩いていないからわかりませんが、大高巻きは大変だと思います。
南沢本流には橋が架けられていますが、枝沢は渡渉になります。
こんな石積みが所々で見られます。日本アルプスの名付け親、ウィリアム・ゴーランド(ガウランド)が明治10年のここを通って槍ヶ岳に向かっています。W・ウェストンは10回以上通ったとされています。彼らも見た石積みでしょう。
右岸の瀬戸沢手前の橋、下瀬戸橋。
右岸のワサビ沢手前は地形図からは平和な道だろうと想像していましたが、そうでもなくて木道が続きましたが、やはりとても滑ります。
この橋を右岸から左岸に渡ると中間点の岩魚留小屋です。
岩魚留小屋は1891年(明治24年)に建築されたといわれ、当時のままの建物が残っているわけです。大カツラの木が見守っているようでした。中には入れません。
なぜか僕のザックにとまったキタテハ。なぜか何頭もやってきました。
翅(はね)を閉じたキタテハ。まるで枯れ葉のようです。
岩魚留小屋を過ぎると道の整備が少し薄くなると思いました。目的地はあくまで上高地なので、徳本峠の先の明神という地名も道標には入ります。
南沢が最後、本谷と峠沢に分かれるあたり、本谷に架けられた橋。この橋を渡った後は徳本峠への最後のつづれ折りの道になります。
はっきりした峠道。
徳本峠小屋。大正12年(1923年)の建物は登録有形文化財(建造物)です。
翌朝、多くの岳人が見てきた穂高連峰の絶景を徳本峠から見ることが出来ました。
明神分岐。江戸時代前期に始まった松本藩による木材伐採が上高地開発の始まりとされています。元禄時代(1688年から1704年)には既に田代、明神、徳沢、横尾ほか12ヶ所にキコリ小屋があり、明神(徳郷→徳本)に常駐する藩役人が木材の検閲を行っていた記録が残ります。江戸時代末期には上高地温泉が発見され現在のサービス業の下地ができました。明治18年には上高地牧場が始まり約50年、春と秋に牛馬が徳本峠を越え、多いときは400頭もの牛馬が上高地にいたそうです。釜トンネルの通行が始まる昭和8年(1933年)まで上高地への道という大役を終えた徳本峠でしょう。
河童橋と焼岳




























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