2015年5月16日土曜日

琵琶湖疏水と大津の町

先日、大津の友人宅にお世話になった時、意味もなく早起きしてしまい、ご近所をぶらぶら散歩。

東海道と北国街道が交わる交通の要衝の大津は歴史の町でもあります。何気なく写した写真の意味を、忘れないように書いておきます。歴史は素人なので間違いはお許しください。


比叡山につながる山の麓、友人の家の前は古道「小関越」でした。


東海道のメインルートは、東に位置する「逢坂越」別名大関。京都山科から大津に通じるルートのメインルート。国道1号線も通っています。その大関越の裏道だから小関越。小関越の方が近かったとも言われています。大津市指定の文化財の道標

かたたげんべゑのくび(堅田源兵衛)
等正寺。堅田地区の漁師の源兵衛の首を安置しています、ということ。大津市HPより~「本願寺中興の祖蓮如が法難を受け、親鸞の御影を三井寺に預けた。後に返却を請うと三井寺は引き換えに生首を差し出すよう要求。熱心な浄土真宗門徒であった源兵衛は、この話を聞き自らの首をはねさせ差し出したという。」


何だかとても立派な水路が現れました。 


琵琶湖疏水びわこそすい
日本を代表する歴史的な遺産です。大津市歴史博物館より~「京都と大津を結ぶ疏水は、京都市の飲料水をまかなうだけでなく、当初は発電や物資輸送、農業用水など多目的に利用することを目的に立案された。第1疏水は明治18年(1885)、青年技師田邊朔郎(たなべさくろう)の指導のもとに着工、同23年に開通。第2疏水は、明治45年に完成をみている。国指定史跡。 

案内板~「琵琶湖疏水は明治維新で東京に都が移り活気を失っていた京都復興を目指して、明治18(1885)年に建設を始め、明治23(1890)年に第一疏水が完成しました。疏水の水は水車動力、舟運、灌漑、防火などに使われ、さらに日本初の事業用水力発電に用いられました。生み出された電力によって工業が発展し日本初の電気鉄道が走るなど、京都はにぎやかさを取り戻していきました。琵琶湖の豊かな水を引いたことは、京都の発展をもたらしたのです。多くの恵みを京都にもたらした琵琶湖疏水は、今も水道や発電などの水として市民の生活を支える源となっています。

第一トンネルの扁額(入り口に掲げる横に長い額)
              揮毫者:伊藤博文 
              文字:氣象萬千
              意味:様々に変化する風光はすばらしい 


丁度この時期‘‘琵琶湖疏水観光遊覧’’という、6人乗りの船で大津から京都まで疏水のトンネルの中を下っちゃうイベントが行われていました。抽選ですごい倍率だそうです。


いたるところに大津の歴史解説があってとても忙しく、朝の散歩は眠気もぶっ飛びました!

三保ヶ崎、この岬は琵琶湖疏水を掘削した時に埋め立てられた岬だそうです。ここから明治26(1893)年、三高(今の京都大学)水上運動部が初めて競技用のボートで琵琶湖周航をしたところでもあるそうで、その時の記念の歌が「われは うみのこ しらなみの・・・」とはじまる有名な歌です。記念の碑が立っているという案内板です。


琵琶湖 


琵琶湖疏水の取水口


町中こんな感じの石標がたくさんあります。


三井寺みいでら周辺の町並み


古い町並み


小関越の古道に戻ってきました。


山梨の田舎から行くととっても大きな街です。歴史のボリュームに圧倒されました。そりゃそうです,7世紀のなかごろ、天智天皇の時代に約5年半と短い期間ですが都があった大津ですから!


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