どうしても毘沙門堂を確かめたくて、いてもたってもいられずって感じで行っちゃいました!
岩水山 西福寺 山梨県市川三郷町中山
県道36号笛吹市川三郷線を下流から東に進みます。芦川に沿った県道が右岸から左岸に渡るところ、市川三郷町中山の垈ぬたという集落だと思います。コミュミティ-バスの中山という停留所。
アイスクライミングで有名な、蛇沢の千波の滝
有泉姓ばかりの墓地を抜けて、簡易水道施設の脇から登り始めました。地形図の波線通りです。
尾根に上がるまでは結構な勾配です。つづれ折に傾斜をころしています。部分的に急な所ところには鉄の杭が打たれています。
石祠の残骸
尾根の上はかなり平ら、古い道も容易にわかります。
三珠町誌 昭和55年(1980年)発刊の記述 岩水の毘沙門天
明治二十年ころまでこの岩水には2戸の民家があって毘沙門堂を守り育てていた。筆者の幼年時代には市川大門町に毘沙門講があり、数百人の講員は祭りの宵10時ころ花火を合図に集合し、夜道を岩水まで登った。到着のころは夜中の12時。お祈祷をすませ、お札を買い、村人接待のお赤飯をいただき、しばしまどろむと明るくなる。部落に下り、芦川に水浴をしたり、本堂で休んだり、あるいは高萩の温泉にひたって夕刻に市川大門町に帰る習わしだった。西福寺の境内や往還には露店が並び、氷水はとぶように売れた。毘沙門経によると財福ががたくさん湧き出して蔵(しま)うところがなくなるので、毎月元日(一の日)三のひに福を焼くという。焼かないうちに福をいただくためには早い参拝が良い。ということで市川講は早いお参りをした。上ノ原、豊富、南湖、大師、八の尻、さては四尾連湖方面からも相当の団体参拝があったが、終戦とともに参詣者もとだえ現在は村人だけでお祭りをしている。
地元の方に聞いたら、今は行く人もいなくなったということでした。
だだっ広い主稜線から、曾川上流の支流をトラバース気味に地形図の毘沙門堂を目指しましたが、急に怪しくなってしまったトレースです。
地形図の毘沙門天を目指して、けもの道を利用して目の前の斜面を登ると、段々に作られた石垣が現れました。
山の中で土木工事が人力で行われ、平らな地面を確保して生活していた、みたいな生活臭ぷんぷんになってきました。
墓石は享保14年と読めます。江戸の8代将軍徳川吉宗の時代です。1729年。
隣には寛政年間の石仏。
建物は存在していました!かなり荒れ果てた感じではありましたが、天井に描かれた曼荼羅も見ることが出来ました。なんだか家紋ばっかって感じです。
寄進者には、豊富村の人たちの名前もあります。
不思議と戦った一週間でした。それでもわかったような・・・
あんな山奥に、八月の第一日曜に夜通し大挙して人が行ったなんて・・・すごいことです!
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