群馬県太田市に行った折りの話です。登山史に登場する木暮理太郎の生まれた場所がすぐ近くだということで行って来ました。木暮理太郎(こぐれりたろう、1873明治6年-1944昭和19年5月7日)。第3代 日本山岳会会長もつとめています。生家の近くには顕彰碑がありました。
山登りは先人の肩にのって先へ上へ進むものだ
木暮理太郎翁生誕之地
日本山岳会会長 西堀栄三郎 謹書
裏の碑文
木暮理太郎翁
明治六年二月七日此の地寺井四八七番地に農家の長男として生まれ 当時山岳信仰の盛んな寺井地区の村人に互して赤城山に登る翁六才の頃であった 幼少の時より山の神秘に魅入られ 生涯を通じて自然を愛し続け 山に対する情熱経験教養その何れに於いても翁は一世の大先達の名ふさわしい存在であり晩年のヒマラヤ研究等翁が心血をそそいだ業績は 今尚 日本近代登山の父と斯界敬慕されている偉大なる山男であった
神童と言われた翁は十六才の時上京 郁文中学校より仙台第二高等学校を経て東京帝国大学史学及び哲学科に学ぶ 以来四十年余ハガキ文学の編輯 東京市史編纂室に奉職その間日本山岳会に活躍 昭和十年推されて日本山岳会会長となる 在籍中昭和十九年五月七日薫風香りにつつまれて七十二才にて大往生を遂げられる
あまたある著書の代表作「山の憶い出」の中に「東上州から見た冬の秩父連山は色彩がうるわしいばかりでなく 自分には更に懐かしい思い出の湧く山である 日は御荷鉾山の後に落ちて そのあたりの天は黄金色に輝き 美しい凪ぎ渡った夕暮れの空に 秩父連山が画然と画き出されたのを ふと心付いて眺めた時には 未だ十一.二の少年であった自分も 凧の糸を巻くことさえ忘れて 磁石に吸われる鉄のように ひたと目を引き付けられてしまった」 翁が秩父の山に魅入られたこの地に記念碑を建立し 翁の業績を永く後世に伝える
昭和五十三年十一月三日 強戸山岳会
ひょっとしたら顕彰碑の石も何か謂れがあるかもしれませんがわかりません。傍らのケルンが関東平野の北の外れの平坦地にはちょっと似合わないものでした。
上州の冬空が広がっていました。
この小さな川の傍らに顕彰碑はありました。からっ風で有名な土地ですが風のない日でした。
現在の太田市寺井町集落。右奥が生家だそうです。
木暮理太郎はこの育った場所から見える御荷鉾山(みかぼやま 西御荷鉾山1,287mと東御荷鉾山1,246m 群馬県神流町、藤岡市にある山)に沈む夕日に感動したことが山に興味を持つきっかけだと記しています。写真は電線がうるさいですが、浅間山方面です。
木暮理太郎の碑は山梨にもあります。金峰山のふもとの金山平。毎年秋に碑前祭の木暮祭が行われています。
木暮祭の記事
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