東海道五十三次の24番目の宿、金谷(かなや)から25番目の宿、日坂(にっさか)まで歩きました。
大勢のご参加で、急遽でしたがガイドが足りないということで静岡県島田市へ。JR東海道本線金谷駅前集合。四つの班に分かれて、準備体操をして出発です。
古地図の案内板。
牧之原台地に上がってすぐの戦国時代の諏訪原城跡。武田勝頼が遠江侵攻の拠点とするために築城された山城です。武田流築城術の典型の城と言われており、堀と馬出{城門の前に配置された小さな曲輪(城内に配置された小区画)。敵の攻撃から虎口(城の出入り口)を守り、城兵の出入りを助ける施設。}だらけです。山の中なのに堀がでかいです。山城の中でも名城と言われています。
建物は残っていませんが、とにかく広く深い山城です。
大井川の向こうに真っ白な富士山が見えました。
すぐに菊川坂の下り。
石畳の道ってスゲー歩きにくいです・・・
間の宿菊川。間の宿(あいのしゅく)というのは、宿場間の距離が長い場合や、峠越えなどの難路などがある場合に宿場と宿場の間に設けられた休憩所的な宿のことです。江戸から京都までの長い東海道の中で、箱根峠や薩埵峠(さったとうげ、由比)、鈴鹿峠などと並び称される難所が金谷宿と日坂宿の間でした。
菊川という地名の由来の菊石。菊の花のような文様に見えますか?この地を流れる菊川という川で見ることが出来るそうです。菊川宿を抜けると青木坂。とても急な坂で、小夜の中山の入り口です。
小夜の中山峠にある真言宗の久延(きゅうえん)寺。境内には山内一豊が関が原に向かう徳川家康をもてなした茶亭の跡や、その礼に家康が植えたとされる五葉松の跡、夜泣石伝説ゆかりの寺としても有名です。
夜泣き石伝説の子育飴の看板があるのが扇屋さん。夜泣き石
広重の浮世絵「東海道五拾三次 日坂」。絵の真ん中に描かれているのが「夜泣き石」。
日本最大級のお茶畑が広がる牧之原台地。お茶の花が咲いていました。
牧之原台地の土地はとても荒れた雑木林だったそうで、誰も手をつけない場所でした。ここを開墾しお茶の栽培を始めたのが、江戸幕府の終焉により職を失った武士たちだったそうです。
粟ヶ岳532mの山腹の「茶」。茶の文字はヒノキだそうです。はじめて見た時は驚いたサイズです。
神職でもある河村佳生ガイド。専門の白山神社の解説をしていただきました。
ものすごい急坂の二の曲りの坂。今でもしっかり難所です。ここを下って国道一号線の日坂バイパスをくぐると日坂宿。
日坂宿扇屋本陣跡。小さな宿場だったという日坂宿。江戸時代を彷彿とさせる町並みが残っていました。
それぞれの屋号が書かれた日坂宿の古い地図。
旅籠「萬屋」は庶民が利用した宿だったそうです。
江戸の人々は背が低かったのでしょうか?入口がせまっ!
旅籠川坂屋(かわざかや)。日坂宿(にっさかしゅく)で一番西にあった旅籠屋で上段の間をもち身分の高い武士や公家などが宿泊したそうです。公開されていて、ガイドさんもいらっしゃいました。夜泣き石にちなんだ子育飴をいただきました。
国道一号線の信号を渡って、事任八幡宮(ことのままはちまんぐう)に到着。
迫力のクスノキの巨木。事任八幡宮(ことのままはちまんぐう)という名前、「ことのまま」というのが「願い事が意のままに叶う」の意味を持つということで、古くから多くの書物に登場する神社で、平安時代には清少納言の「枕草子」や多くの和歌、鎌倉時代には吾妻鏡、江戸時代には十返舎一九の「東海道中膝栗毛」などに願い事が叶う神社として登場しているそうです。
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