2019年3月29日金曜日

みみ石から舞台へ

以前、黒平のみみ石で雑誌の取材を受けたことがありました。そのことを山と渓谷2月号というタイトルで記事書いています。雑誌の記事のルートをぜひ歩いてみたい!というリクエストをいただいていたのがやっと実現した山行です。ちょっと見づらいですが、赤い線が距離約9㎞の歩いたルートです。南から時計回りに歩きました。
地図読み講習をたくさんやってきました。地形図を持って実際の地形と照らし合わせるというスタイルです。現在地を確認して地形図を先読みしてふり返るという内容。地形だけを見て自分で判断して行動するというのは、かなり高度なことですがそのスタイルが目的になってもいいくらいの面白さがあります。

標高点1072ⅿ―寒沢(さぶさわ)水力発電用の大きな送水管のすぐ上で、地図の西に延びる途中で消える徒歩道には、昭和30年代まであった黒平鉱泉の跡があります。
標高点1664m―みみ石 江戸時代の地誌「甲斐国志」にも登場します。
標高点1660m―甲斐国志に登場する「大株」という名前かも知れません。
三角点1514.7m―点名「舞台」明治37年設置
標高点1386m―和尚殿(おしょうでん) 花崗岩の岩塔が連なる尾根、女和尚、男和尚と呼ばれるピークがあります。


猫坂を過ぎて展望が広がる林道のポイント。尖がったピークがみみ石です。すぐ右の台形が木賊山。せっかくなのでビューポイントから山座同定して登山口に向かいました。


寒沢の古い林道から右へ。地形図には書かれていない小さな沢などが登場して、ちょっと難しい読図でした。石祠は御岳の夫婦木神社のご神体のトチノキが伐りだされた場所。


大事な燃料としての木炭の生産地だった証し。炭焼き窯の跡がたくさん登場するエリアです。


みみ石から南東に延びる尾根上のコル。写真の鞍部(コルです)に着いて左に曲がって尾根を登ればみみ石までの標高差は300mくらいです。


単純にみみ石に着くわけではありません。1530mの等高線の曲がりが特徴的です。こんな風に伸びた等高線のところは傾斜が変わります。そのことで現在地がわかります。等高線の変化を理解するというところから地図読みは始まります。


等高線1520m~1530mの緩傾斜。


みみ石1664ⅿ手前の岩マークの実際。


みみ石山頂。


みみ石からまっすぐ北に向かうんですが、北にあるピーク木賊山手前のコルまでは1km近くあります。標高差があまりない稜線で、地形の変化が地形図、二五万図では表現出来ないのでちょっと戸惑うかもしれません。写真のような広葉樹の森まで来ればひと安心です。


木賊山南のコル。


コルから東に向かう小さな尾根は地形図にはっきり確認できます。


下り立った尾ノ内沢の二俣。甲斐国志に「斧落沢おのおちさわ」として登場する尾ノ内沢です。おのおち⇒おのうち。


マンサクの花が咲いていました。


下り立った二俣からダイレクトに尾根に取り付いた標高点1660m。このピークを「大株」といっていいと思います。甲斐国志にも登場した山名です。登山者視点ではそうなんですが、山奥の生活者目線だとピークというよりエリアです。


日本を代表する水晶産地の黒平です。途中採掘痕があり、周りに転がった小石をよく見てみたら3~4mmの六角形の水晶の結晶。


「舞台」三角点柱石。明治37年に設置されています。


大株のピークと三角点舞台のコル。このコルから三角点舞台へはピストンしました。再びコルに戻ってきたところです。


GPSログをいただきました。かなり高度な地図読みになってしまったセクションでした。特に標高点1660mと三角点舞台とのコルの周辺は、下の地形図とは全くと言っていいほど違っていました。今にして思えばよく尾ノ内沢に下る緩やかな尾根を下れたと思います。等高線とコンパスだけでは無理だったでしょう。やぶ山経験が必要でした。


無事にドンピシャにみみ石から南東に延びる尾根上のコルに戻った時はホッとしました。


さらに進んで標高点1586ⅿから和尚殿をピストン。中津森と御巣鷹山が良く見えました。


下山途中から見えたみみ石。やっぱカッチョいいです。


標高点1586mから南の下黒平集落に下りました。ねらった尾根の一本西の尾根に下ってしまいましたが、最後に寛政年間(江戸後期)の馬頭観音像と山の神の石祠に会えたから良かったです。寛政は今から220年前です。


下黒平の集落から見えた中津森。


集落の入り口にあった丸石道祖神。山梨に多い道祖神で、ほかの県にはあまり見ることが出来ないものです。災いが村に入らないためとか子孫繁栄や旅の安全を願って祀られたものです。


帰りの林道で子供のカモシカさんに会いました。


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