2015年2月20日金曜日

天空集落周回 八坂


芦川南側山稜の南の斜面に点在する集落、沢、三ツ沢、八坂、折門、御弟子、これらの天空集落を地図読みをしながら一周出来ないかな~と考えていました。2週間も前に決めたこの日はあいにくの天気・・・山間部では20cmの積雪予報・・・日をずらしても好天の保証なんてないし、あえてこんな日に行ってみれば想像もしない景色に会えるかも!?なんて感じの出発の朝でした。
国道52号戦線かなら    四国300号線道、県道道416号線と走り、「沢」集落です。

林道折八古関線入口

二万五千図「市川大門」を切り取って、登り始めのポイントと、とりあえず目指す三ツ沢峠のポイントを赤で示しました。わかりにくいかもしれませんが、登山道の整備されていないところを歩く時、どんな風に考えるかというのを書いてみます。左のの左が「沢」集落。ここからスタート。左のから794m標高点を通って左にカーブしながら尾根を登って行くと右のに着きます。右のは三ツ沢峠です。


左ので反木川が分かれます。それぞれの沢沿いに林道があって、右の沢の林道を行くと三ツ沢集落。左は八坂集落方面です。ふたつの沢の真ん中にある尾根を登り(この尾根の最終ピークは、三方分山と釈迦ヶ岳のちょうど中間にあるトリノ山1297mです。)、三ツ沢峠に出たら三ツ沢集落をピストンして、八坂、折門、御弟子と回って、沢集落に下れば周回ルートになると考えました。

下の写真が尾根の始まりです。登れないことはないのですがすっごい傾斜です。右か左の林道をしばらく行ってから取り付こうかとも思いましたが、地形図の等高線を見る限り決定的な弱点がすぐ出てくる感じでもありません。そこで思い切って上の地図のまで行くことにしました。尾根に上がってしまえば、傾斜があっても問題なく高度を稼げると考えました。とにかく尾根に安全に乗っかろうということです。のところは沢地形ですが、このくらいだと滝が現れるサイズではないし、始まりがとても緩やかです。


ということをだいたい一瞬で判断します。分岐点から左の沢沿いに林道を進みました。左岸に付いた林道が、右岸に渡る橋のところが取り付きになる、地形図から読み取れることでした。


取り付きに決めた沢地形の場所は分かりやすくて、ちょうどスギの植林地の中にシイタケ栽培をしている所でした。シイタケのほだ木の間を抜けると、薄いけど仕事道が付いていてらくに尾根に上がることが出来ました。読みがばっちり当たりました。


山伏屋敷の石祠

尾根​​を詰めて、へこんだ昔の道が出てきたので三ツ沢集落に向かいます。地形図の徒歩道とは違ったトレールで、実際は真南に向かう尾根につけられたトレール。三ツ沢集落のずっと手前の平らな所に石祠が集められていました。山伏屋敷というのだそうです。昔、山伏、つまり修験者がここに住んでいたという言い伝えから、地元の人がそう呼んでいるということでした。

三ツ沢集落


金山神社の鳥居

三ツ沢集落からまた登り返して、三ツ沢峠に来ました。古い標識が三方分山と八坂の方角を示しています。渋いベンチと石祠がひとつ。


北西斜面の峠道、道形は少し心もとなくなりましたが、はっきりわかります。途中に馬頭観音あり。


今回ご一緒したのは甲府のアウトドアショップ SUNDAY の石川幸之助さん。


八坂の大ミズナラ推定樹齢450年


作業小屋。反木川の源流に近い場所に建っています。出来上がった炭を貯蔵したり、俵に入れたり、そんな作業小屋だったそうです。


林道折八古関線

八坂集落    

三ツ沢峠から沢のトラバース道と小尾根を越えたら、林道林道折八古関線に出てしまいました。この頃雪の降り方が激しくなり、どうしたものかと、どんどん林道を歩いて行くと八坂集落に着いてしまいました。林道折八古関線があるおかげで、、車で来ることが出来ます。なんと人がいらっしゃいました。

今福太喜男さんです。

激しく雪の降る中、家の中で休ませていただいて、天空集落のいろんなお話を聞くことが出来ました。今福さん、お世話になりました。先ほどの山伏屋敷や作業小屋のお話も、今福さんに教えていただいたことです。


林道折八古関線が出来る前、生活物資や山での生産物の運搬に使われていた「索道小屋」です。この900mの集落とふもとをワイヤーロープで結んで、物資の上げ下ろしをしていました。標高差は250mくらいでしょうか。


今福善九郎浄閑の墓

今福善九郎浄閑(じょうかんさんと今福さんは言っていた)という武将がこの地に来た時から、八坂の歴史が始まったということになっています。寛永19年(1642年)9月7日行年84歳と彫られていました。林道折八古関線が出来たタイミングでつくられた墓石だそうです。


今福さんはこの地で天空菜園という宿泊施設をやっています。

素泊まり1800円(寝具付き)、シャワーあり、日帰りバーべキュウー可、自家製炭使い放題

なべ食器は完備されていて、食材を持ちこめばOK、カラオケ完備歌い放題OK、山の生活指導OK
冬以外は営業しています。

次は折門集落を目指します。


2015年2月17日火曜日

折八という集落

天空集落 折門という記事を以前書きました。

芦川南側山稜の三方分山、釈迦ヶ岳から西に進んで蛾ヶ岳の手前、大平山の南の斜面にへばりつくようにあった集落。昭和45年(1970年)に集団離村した折門集落を訪ねたものでした。その後、少しずつ調べてみてわかったことを記録しておきます。

下の写真は、山梨日日新聞 2010年1月3日~5日の「ふるさとの地平 消えゆくムラ折八」という記事から引用しました。この天空集落ともいえる村々、ずいぶん前からとても気になる存在でした。山登りといってもいろんな切り口があります。以前から気になっていながらちゃんと調べてみよう、調べた上で出来るだけ多くの人に伝えようと思ったのは読図です。読図講習を提案しています。こちらです。地図を読めるというのは、もちろん道迷いを防ぐという登山技術の基本なので、多くの人が習得すべきことではありますが、何度もやっているとそのこと自体が目的になると感じています。つまり、整備されていない山の中を地図を読みながらオリジナルのラインで山を歩くということです。しかも、単純に地形図とにらめっこしながら予定したところを歩いてくるというだけではなく、その場所の歴史的な背景も押さえておくと、今はただの廃道なんだけど、多くの人の営みというバックボーンが確認できると「古道」という表現になって、自分たちがトレースするルートに特別な価値が生まれます。

折八というのは、折門おりかど と 八坂はっさか という集落を合体させた表現です。


山梨日日新聞 2010年1月3日~5日の「ふるさとの地平 消えゆくムラ折八」の記事のキーワードは、過疎化、少子化、限界集落、となるのでしょう。上の写真の大字、折門の方々が登場します。ふるさとが時代の変遷とともに移り変わっていく、自分自身の生活の基盤も時代に合わせるしかない。はかない庶民の生活史が描かれています。


折門、御弟子、沢、三ツ沢、八坂
ここに何度か地図読みをしながら、天空集落をお伝えしようと思っています。登山の原点があります。

おまけのセツブンソウ。2月14日の芦川の様子です。


募集中です!

◇ セツブンソウ   山:三方分山1422m  花:山梨県三珠町 

節分草は高さ10センチに満たない小さな花で、文字通り節分の頃から咲き出すようです。旧三珠町高萩地区の渡部さんのご自宅の裏山が自生地として毎年ニュースに登場します。三方分山の帰りに見学させていただきます。
・日時集合 : 2月26日() 午前8時  中道考古博物館 
・ルート   : 中道=精進湖-女坂峠-三方分山(ピストンまたはパノラマ台周回)-精進湖=
         三珠町古宿セツブンソウ自生地
三方分山の登山    標高差約500m 距離約5km 行動時間4時間予定
・ガイド料  : ¥8000 

2015年2月15日日曜日

曽川下降


毘沙門堂の帰りということになります。
どうも地形図の波線があやしくなる感じがした、北へのトレースでした。現場判断です。結果、その判断はズバリ正解だったのですが、ここを下見なしでトライするのは遭難予備軍ということになっちゃいます。今回・・・大いに反省です。

マンションのようなキツツキの穴



鹿の踏み跡ばっか。

どこをチョイスしても簡単ではなくなる気がして、素直に主稜線に出て地形図の大峠を目指しました。大峠最高地点の様子です。


2月11日のトレース

大峠に登り、ズタズタにされた林道に入りました。


ほうき原を見下ろして、そこに向かいます。大峠と838m三角点三馬頭山の間の最低鞍部です。


仕事の感覚で、三角点三馬頭山838メートルを確認しピストンしました。恩賜林の関係者の方々、三角点と恩賜林標は違うものなので、赤ペンキは勘弁してください!


ほうき原

毘沙門堂までの地形図の徒歩線が正確だったので、心を許したおいらの間違い・・・ほうき原から沢筋をちょっと下ればむかしの道が出現!とはなりませんでした・・・下の写真は、毘沙門堂からくるとしたら唯一の弱点のルンゼです。それにしても普通には歩けないみちでしょう!地形図の毘沙門堂から北東に延びるほうき原への波線は存在しません。道はなく、ただの沢です。


こんな印象の沢


それでも時々現れる人の痕跡··· 


すっごい山の奥なのに立派な石積み。 


地形図の右岸にあるはずの徒歩道には裏切られ続け・・・滝また滝・・・


 あるはずのむかしの道はなく、真冬の沢下りになってしまいました!

むかしの道を発見した時はかなり下った後でした・・・びっくりするくらいの石積みは橋が架かっていた跡です。


ここまでの道になれば平気です。


突然出た伐採地。写真ではわかりませんが、稜線の新しい林道のガードレールが見えました。


これいいっすよね!馬頭観音ですが、観音様の頭に馬の頭のデザイン。


畑の跡です。無残なくらい雑草だらけですが、やばい沢から抜け出した後ではホットします。



最後の林道

中山と高萩は隣り合う集落でした。別物です。いずれにしても谷間の集落の両側が切れたった
険しい地形です。人の営みが奇跡に感じられる場所ですが、山梨にはこんな場所がたくさんあります。

岩水の毘沙門堂


どうしても毘沙門堂を確かめたくて、いてもたってもいられずって感じで行っちゃいました!

岩水山 西福寺  山梨県市川三郷町中山


県道36号笛吹市川三郷線を下流から東に進みます。芦川に沿った県道が右岸から左岸に渡るところ、市川三郷町中山の垈ぬたという集落だと思います。コミュミティ-バスの中山という停留所。

アイスクライミングで有名な、蛇沢の千波の滝


西福寺境内

有泉姓ばかりの墓地を抜けて、簡易水道施設の脇から登り始めました。地形図の波線通りです。


尾根に上がるまでは結構な勾配です。つづれ折に傾斜をころしています。部分的に急な所ところには鉄の杭が打たれています。


石祠の残骸


高野箒 コウヤボウキ

尾根の上はかなり平ら、古い道も容易にわかります。

三珠町誌 昭和55年(1980年)発刊の記述  岩水の毘沙門天

明治二十年ころまでこの岩水には2戸の民家があって毘沙門堂を守り育てていた。筆者の幼年時代には市川大門町に毘沙門講があり、数百人の講員は祭りの宵10時ころ花火を合図に集合し、夜道を岩水まで登った。到着のころは夜中の12時。お祈祷をすませ、お札を買い、村人接待のお赤飯をいただき、しばしまどろむと明るくなる。部落に下り、芦川に水浴をしたり、本堂で休んだり、あるいは高萩の温泉にひたって夕刻に市川大門町に帰る習わしだった。西福寺の境内や往還には露店が並び、氷水はとぶように売れた。毘沙門経によると財福ががたくさん湧き出して蔵(しま)うところがなくなるので、毎月元日(一の日)三のひに福を焼くという。焼かないうちに福をいただくためには早い参拝が良い。ということで市川講は早いお参りをした。上ノ原、豊富、南湖、大師、八の尻、さては四尾連湖方面からも相当の団体参拝があったが、終戦とともに参詣者もとだえ現在は村人だけでお祭りをしている。

地元の方に聞いたら、今は行く人もいなくなったということでした。


だだっ広い主稜線から、曾川上流の支流をトラバース気味に地形図の毘沙門堂を目指しましたが、急に怪しくなってしまったトレースです。


沢に出て見上げた北斜面

地形図の毘沙門天を目指して、けもの道を利用して目の前の斜面を登ると、段々に作られた石垣が現れました。


山の中で土木工事が人力で行われ、平らな地面を確保して生活していた、みたいな生活臭ぷんぷんになってきました。


戒名が彫られた墓石

墓石は享保14年と読めます。江戸の8代将軍徳川吉宗の時代です。1729年。
隣には寛政年間の石仏。


毘沙門堂あらわる!


建物は存在していました!かなり荒れ果てた感じではありましたが、天井に描かれた曼荼羅も見ることが出来ました。なんだか家紋ばっかって感じです。


寄進者には、豊富村の人たちの名前もあります。


毘沙門堂裏

不思議と戦った一週間でした。それでもわかったような・・・
あんな山奥に、八月の第一日曜に夜通し大挙して人が行ったなんて・・・すごいことです!