2017年4月10日月曜日

大河津分水路

大河津分水路(おおかわずぶんすいろ)は、信濃川の氾濫から越後平野を守る治水の人工河川です。弥彦山山系に春の花を訪ねる定番の山行に出かけた時、信濃川の途中から流れる不自然な大きな川はどうしても気になります。大河津分水路(おおかわずぶんすいろ)という名前であるというのはすぐにわかりますが、どんなストーリーがあるのだろうと気になっていました。


国上山に登った後、時間があったので信濃川大河津資料館を訪ねました。大河津分水路(おおかわずぶんすいろ)って何なの?ということを知りたかったからです。月曜休館の資料館は午前9時~午後4時の開館時間。信濃川と越後平野の治水、利水の話をボランティアの方から詳しく聞くことが出来ます。


信濃川は日本で一番長い河です。全長367㎞。加えて流れる水の量も日本一だそうです。信濃川は長野県から新潟県に流れます。その源流は甲武信ヶ岳という説明でした。甲武信ヶ岳は山梨と埼玉と長野の県境の山です。


甲武信ヶ岳から流れ出した水が、とうとうと支流を集めて越後平野に入る直前にある大河津分水路。資料館のジオラマを写真に撮りました。新潟市まで行く前に、ここが一番海に近い場所です。


越後平野の昔の田植えの様子のジオラマ。高低差がほとんどないので、大水が出ると水が溜まって大変だったそうです。泥の土地で、稲作も大変だったようです。ジオラマのお百姓さんは足がもぐらないように、スキーの板のような道具を付けています。


高低差がない越後平野のお田植えは、一度大水が出ると腰まで浸かっての農作業になってしまうというジオラマ。


水に浸かった田んぼ作業で、工夫された道具の田んぼ用の特別な下駄。あまり効果的ではなかったそうです。


今でこそ日本一の穀倉地帯の越後平野ですが、治水の目途が立つまでは自然との闘いの歴史だったということです。日本一の大河です、大雨にひとたび見舞われれば、はるか300㎞近い山梨の県境から、たくさんの支流の水を集めて、新潟、越後まで流れ下れば災害を起こすという歴史が、3~4年ごとに繰り返されました。その水との戦いをコントロールするための大河津分水路ということです。発案は江戸時代、幕府の許可が下りなくて紆余曲折あって完成したのは昭和の初め、洪水に苦しめられていた越後平野を開放するための土木工事。越後平野手前で多すぎる水を日本海に流す役目の大河津分水路。明治の時代に起きた「横田切れ」という洪水で本格的に土木作業がなされたということです。
横田切れの時の新潟市のお寺の本堂の浸水のあと。


ちょっと前の時代まで越後平野は洪水と格闘していました。そのことが良く分かる大河津資料館でした。


本格的な土木作業に使われていたフランスから輸入されたバケット。ここに土砂を入れるのは人力です。


約10㎞の開削の様子のジオラマ。パワーシャベルもダンプトラックもない時代です。


実際の風景はのんびりしている河川敷。


信濃川に大量の水が流れた時に、本流と右側の堰を動かして水をコントロールします。


そんな大河津分水路を見下ろしているような弥彦山です。


大河津分水路が日本海に出る河口。


この日泊まった宿のまつやさんのフロントにも、越後平野のコメ作り自然との闘いの歴史がありました。まるで橇のような木製の物、雪が多い時に使うためのものではなくて、深く溜まった水の中でも農作業が出来るための道具だったそうです。


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