2013年10月22日火曜日

木暮祭

 木暮理太郎(1873年 明治6年~1944年 昭和19年 )

歴史上の人物です。
多くの先覚者の礎があって、今の登山がある。いつもそんな風に感じています。

増富の金山平

 『東京帝大を中退後、東京市史の編纂に携わり、生涯をこの事業にかけた。生家から見える秩父の山並みに あこがれ、 若いとき から登山に親しみ、北アルプスや南アルプスに先駆的な足跡  を残す一方で、自ら名付けた奥秩父に田部重治らと足繁く通い、‘ 秩父時代’ともいえる時代を築き、その魅力を紹介し続けた。』
                                            ‘山梨岳連’第77号より

田部重治と木暮理太郎 左、田部重治と木暮理太郎(茨木猪之吉画)

『7回忌に当たる1950(昭和25)年ゆかりの人たちが、金山平の奥にある岩に記念のレリーフを埋め込み、命日に集 まって翁をしのんできた。命日は5月7日。ところが1954(昭和34)年の台風7号で岩が傾き無残な姿になったので、翌年、現在の場所に移転した。』

林の木々がすっかり大きくなって、現在では想像もつきませんが、木暮碑のある場所が選ばれた理由は、金山平のこの場所から金峰山、瑞牆山がよく見えたから、ということらしいです。

初めに木暮レリーフがあった岩

『本谷川上流の金山沢右岸の金山平には、金山の伝承が伝えられています。「往古金鉱があり、武田氏の時代には400戸の人家があり、金山千軒といわれた。」(北巨摩郡史)といいます。金山平の有井館には、水場から明治20年代に発見された鉱山臼があり、金山には、御岳型黒雲母花崗岩の地層のペグマタイトに掘り込まれた坑道3カ所が知られていました。須玉町史編纂のための調査として、金山金山遺跡の調査が1995年に、塩山市黒川金山・身延町湯之奥金山に次ぐ、甲斐金山として3番目の総合調査が行われています。
 金山山腹の標高1610m~1530mにかけて11カ所の坑道、試掘抗(狸堀)数カ所を確認することができました。坑道は縦長の金桶押法の坑道で、1~20mの長さで鉱脈を追って険しい山腹に掘り込んでいます。採掘された時期は、武田信玄の活動していた戦国時代から江戸時代までだといわれています。また、金山の北側にある「魔子の人穴」も金を採掘した鉱山の跡だといわれています。』                             増冨小学校HPより

木暮祭、いつもは金山平周辺の山に記念登山をして午後から碑前祭をするという流れです。
友人が朝迎えに来て、いざ記念登山!という感じだったのですが、あいにくの冷たい雨・・・
連絡が不徹底でおじさん二人が山に入ってしまいました。
木暮祭まで半日も時間があるので、金山平(かなやまだいら)の金山(きんざん)跡でも見物しながら‘摩子の山’でも登ろう、ということになりました。


木暮レリーフからマーキングされていて、地図も持ってなかったのですが、いくつかの穴を見学できました。人が入れそうな大きさですが、ちょっと腰が引けました。

摩子の人穴

坑道跡

坑道跡

坑道跡

‘摩子の人穴’のあるピーク


坑道跡も最後の中腹まで整備されていましたが、あとは藪こぎ。岩も出てきてややハード・・・
それでも時間がたっぷりあったので、ちょっと遊びました。
普段焚き火は任せろ!などと言っているもので、ではこの雨の中で火をおこせるか?ほんじゃやってみるじゃんけ!となりました。苦労はしたけどあったまりました。


帰りは一般道から金山平に戻りました。


木暮祭合流
木暮理太郎の出身地、群馬県太田市からの参加者もいらっしゃいました。


参加者にはあったかい‘ほうとう’がふるまわれ、
寒かったもので二回もおかわりしてしまいました!







0 件のコメント:

コメントを投稿