2015年1月27日火曜日

毘沙門堂

山の楽しみ方はいろいろあります。ガイドブックに載っている山だけではなく、地形図を読みながら、なんだろう?どう登って下るか?と考えながら行くというのもありです。有名な山のバリエーションもいいのですが、人のにおいのする里山も味があります。ただ単にトレースするんじゃなく、そのエリアの山と人々とのかかわりなんか調べて登ってみるというのも楽しいです。今は途絶えた山の民の往来を感じながら里山を歩く。

2月11日(水)の地図読み講習の下調べをしました。まだまだ募集中です!

ずっと昔から「卍」が気になっていました。地図記号 寺院です。御坂山地の山の中にあるお寺のマークです。標高約700mになぜ?今の地形図には書いてない集落があったのだろうか?建物も記入されています。


募集している地図読み講習1/31,2/11,2/28,3/14,3/28と予定しています。多くの方にご参加いただきたいです。机上でやってもわかった気になって身に着かないんじゃないかと思っています。
地形図と実際の地形を見て、進むべき方向を自分で決めていくというトレーニング
という感じでご参加いただければ使える地図読みになるはずです。

二万五千図「市川大門」です。上は拡大したもの、下は地名を入れたもの。「毘沙門堂」、「屋敷平」と文字を入れてみました。地名のソースは「三珠町誌 昭和55年発刊」です。


三珠町誌に載っていた地図。
現在の地形図にも載っている「大峠」、その南西の「毘沙門堂」、「茶屋平」は現在のたいら山のこと


とりあえず山名は気になるので、何て名前の山なのかを調べることが多いです。いろんな本で調べることも多いし、ふもとの集落の方に聞くこともよくあります。今回は「三珠町誌」を開きました。

岩水の毘沙門天
明治20年頃まで2軒の家があり毘沙門堂を守っていた。由緒についてはいくつかあるようで、新羅三郎義光(甲斐源氏の祖)の兜から始まったとか、沙門という修行者が毘沙門尊天をまつって供養したとか。始まりは室町時代の永正11年(1514年)。毘沙門天は七福神で有名なんですが、七福神は江戸時代からのようで、毘沙門天が何の御利益があるかといえば、武道の神、戦闘の神、福の神。安永7年(1778年江戸時代)に毘沙門堂が出来たことになっていますが、明治25年と昭和12年に中山部落は大火に見舞われ焼失したと書かれています。三珠町誌の中での地名ですが、三珠町の中の高萩の中山の岩水に毘沙門堂ということのようです。

歴史上のことの検証はなかなか難しいのですが、2月11日に予定している山行の目玉は「毘沙門堂」になることは間違いないです。火事で燃えてなくなっているかもですが、現在の地形図にも建物記号が載っているので、「毘沙門堂」があるかどうかの答えは当日のお楽しみということになります。



ついでに今日ページをめくったもう一冊は、旧三珠町の北隣の「豊富村誌」平成12年3月発刊。
平成の合併で、豊富村は中央市に、三珠町は市川三郷町にとややこしいのですが、それはいつの時代も庶民は時代に翻弄されるということで・・・だからこそ山の民の息づかいが感じられる、こんな山行に意味があると思うのは僕だけかな?

その「豊富村誌」でコレクトしたこと。838mの三角点は三馬頭とか三馬頭山という名前。931.9mの三角点はまないた山という記述がありました。特に931.9mの三角点はいくつもの表現で山名がいろいろです。茶屋平、まないた山、たいら山。時代に翻弄されている山です。

2月11日のこの地図読み山行。意図的に下見はしていません。ここまでのレポートがどんな結末になるか、僕自身がとても楽しみです。


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