2015年8月5日水曜日

金峰山の古い地図

昔は山のくらしというのがあったと思います。今では想像もできないくらい山の中に人が入っていました。50年くらい前まではそうだったでしょう。人が入らなくなれば、そこで使われていた生きた地名はどんどん失われていきます。今から80年も前に書かれた原全教はらぜんきょう著『奥秩父』。
昔の地名が文章の中にも、添付の地図にもどしどし出てくる本です。

原全教
 明治33年石川県輪島市出身。大正12年上京後、東京市職員になり関東周辺の山々を歩き、昭和8年『奥秩父』、同10年『奥秩父 続編』朋文堂を発行。奥秩父研究のバイブル的存在の書となる。元日本山岳会会員。


付録の地図のタイトルがすごいです。大秩父山嶽図


今回は、金峰山を南から、甲府市の黒平地区から登る場合の地名の下調べ。原全教の奥秩父からポイントになる地名を書き残しておこうと思います。

金峰山の山岳信仰のルートのことを『みたけ道(みたけみち)』と言います。山宮が山頂横の「五丈岩」の南にあり、そこに登るのに里宮の「金桜神社」にまずお参りして行くというのが正しい金峰山登山でした。金桜神社のあるのが甲府市御岳という地区です。
金峰山講中登山の最盛期には神主の家が70軒、参詣者の宿泊所が200軒もあったと言われている御岳地区です。昔のルートは金桜神社から猫坂を通り、黒平集落を経て、佛坂ほとけざかを登り、御室小屋に泊って、翌日山頂を極めるというものでした。上黒平の鳥居マークの上に『佛坂』の文字が見えます。佛坂を過ぎると伝丈沢と金石沢の合流点に鳥居のマークが見えます。ここは少し広くなった所で『龍ノ平りゅうのたいら』という所です。現代の僕らはここから登り始めます。


龍ノ平から御室小屋跡まで出会う沢の名前は、伝丈沢長坂沢御小屋沢御子ノ沢御室川となります。荒川本流の右岸に道は付いているので、右岸の枝沢の名前ということになります。


奥秩父の本文中に登場する地図には、もっといろいろな地名が登場します。本文の中でさらに細かく説明がされています。『龍ノ平』から尾根道に入り、1709.7mの三角点の南西にある緩やかな所が『楢峠ならとうげ』(黒平からちょうど一里)、地元の人は「いっぽんなら」と呼んでいるらしいです。1709.7mの三角点の北の鞍部が『唐松峠』。唐松峠には第七の鳥居があったと書かれています。
⇒ここは、奥秩父の中でも非常に理解が難しい部分です。というのも、原全教は地元の山里の人々に聞いた話を加味しながらも、ベースは『甲斐国志』です。甲斐国志は江戸時代の地誌。文化11年(1814年)に成立、今から200年前です。甲斐国志に書かれていた地名はここいらだと思う、みたいな表現がたくさん出てきます。
奥秩父に書かれている判然としない地名:國見岩姥祠うばやしろ、キッチョウ平唐松嶺とうげ、御子ノ沢丸石沢、など。そして『水晶峠』です。龍ノ平から水晶峠の間は地名同定がかなり難しい。
長くなったので、いったん切って続きはまた!


五丈岩南面 この石垣の上に30人くらいが宿泊できる籠堂があったそうです。


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