タイトルの「内藤新宿」は江戸時代の話です。日本橋からスタートする甲州街道の最初の宿場です。一瞬に江戸時代にタイムスリップ出来ます!ご縁があってガイドさせていただいた新宿御苑です。上手くお伝えできるか自信はありませんが、何度かに分けて書いてみます。がんばります!
新宿御苑の入り口は全部で三つ。千駄ヶ谷門、大木土門、そして一番大きな新宿門です。
ここのルーツは江戸時代。戦国時代から安土桃山時代にかけ徳川に仕えた家臣、内藤家。徳川家康が豊臣秀吉の命により、天正18年(1590年)江戸に入った翌年、内藤家は長年の功労と功績を認められ今の新宿に屋敷地を拝領しました。慶長8年(1603年)に徳川家康が征夷大将軍に任命されて始まった江戸時代ですから江戸時代が始まるちょっと前ということになります。
入園料200円。チケットです。いちど出て再入園もできます。
江戸時代、幕府から複数の土地があてがわれた大名たちでした。江戸城からの距離で近い順に上(かみ)屋敷、中(なか)屋敷、下(しも)屋敷と区別されていました。上屋敷は、参勤交代で江戸に詰めた大名が通常暮らした屋敷、、中屋敷は主に次期藩主や隠居した前藩主が暮らした場所、下屋敷はその控えです。下屋敷は郊外に位置し、現在でいう別荘のような性格をもつものだったようです。新宿御苑は内藤家の下屋敷という位置づけです。ぎりぎり江戸の外れで、そこから先は田園風景だったわけです。
巨木の多い新宿御苑。これはスズカケノ木、プラタナスです。このストーリーは明治時代です。
江戸時代がスタートする直近はすさまじい変化です。織田信長、豊臣秀吉、そして徳川家康の江戸時代。時代の流れのスピード感が半端ないです。内藤家が徳川家康にもらった領地の内藤新宿、その20年少々前にわれらが武田信玄が亡くなっているわけです。時代が驚くようなスピードで変わって、論功行賞のようにあてがわれたこの土地。内藤家が大きな豪族、または大名だったかといえば全く違って、弱小で小さな大名でした。3万石の大名。石こくの意味は、一人の大人が一年間に必要とするお米の量という単位です。約150㎏の量のお米が一石。それを換算しての石高です。加賀百万石がトップ。内藤氏は三万石、ランク付けしても100番台。
昭和2年に建てられた「御凉亭」
カツラの木の大木
甲州街道は日本橋から甲府に至る、江戸幕府によって整備された五街道のひとつです。甲府から中山道の下諏訪まで連絡していました。当初、日本橋から最初の宿場高井戸までの距離が長く、旅人が難儀していました。そこでその中間にあたる地に宿場の設置が認められました。この宿場は、内藤家が幕府に返上した屋敷地に置かれたことと、新しい宿の意味から「内藤新宿」と呼ばれます。新宿という地名の起こりです。
八重桜関山カンザンです。新宿御苑には約65種1,100本の桜があるそうで、1か月以上、桜を楽しめます。
ツツジも咲き始めました。
つらつら書いてきましたが、新宿御苑が時代とともにどんな変化をしたのかまとめておきます。
・1591年(天正19年)
内藤家2代目の内藤清成が徳川家康から現在の新宿に領地をいただいた。
・1691年(元禄4年)
内藤家7代目内藤清枚(きよかず)の時に、領地を信濃に移され、3万3千石の高遠城主となる。
・1698年(元禄11年)
内藤家の屋敷跡に新設された甲州街道最初の宿駅として「内藤新宿」が設けられる。
・1872年(明治5年)
明治政府は、現在の新宿御苑に牧畜園芸の改良を目的として「内藤新宿試験場」を設けた。
・1906年(明治39年)
現在のような"新宿御苑"として完成したのはこの年。わが国唯一の大庭園「新宿御苑」が完成
0 件のコメント:
コメントを投稿