濃溝の滝から移動して、内房総の金谷に来ました。写真は東京湾フェリーの船です。国道127号線から見えました。千葉県富津市の金谷と神奈川県三浦市の久里浜を結ぶカーフェリーです。フェリー乗り場の南に金谷海浜公園があり、公園の駐車場に車を停めて登山スタート。鋸山登山です。JR内房線の浜金谷駅がすぐそこで、多くの方が登山口として利用しています。
この石垣、特徴的ですよね。
房州石とか金谷石とか呼ばれる、鋸山から切り出された石材です。この石材と鋸山は切っても切れない関係です。登り始めの浜金谷駅近くで出会えたことに感動していました。
鋸山を見上げます。見事に鋸の歯のようにギザギザです。房州石を切り出してこんな形になってしまった鋸山。房州石は、房総半島西部(内房総)から切り出された凝灰質の砂岩~細礫岩石材の総称です。採石場は富津市から鋸南町にかけて点在し、その地名をとって、元名石(鋸南町元名)、金谷石(富津市金谷)、天神山石(富津市海良)、高宕石(富津市高宕山)などと呼ばれていました。そのうち最も質の良いものが、鋸山の採石場から稼行(かこう・地下資源を掘り取ること。採掘。)された金谷石です。
いくつかある登山道のひとつ「車力道」。車力というのは、切り出した石材を運ぶ人夫のことで、それは女性だったそうです。車力は切り出した石材をねこ車に3本載せて麓まで運搬しました。一本の重さが80㎏です!車力道の石畳、運びやすいように敷かれたものだと思います。真ん中のへこみが大変な仕事であったことを想像させます。歩くのが申し訳ないくらいです。石材の切り出しの最盛期の明治には、金谷の人口の80%がこの仕事に従事していたそうです。
現在残っている鋸山山頂付近の石切り場跡は、かつての石材業の繁栄を物語っています。大正期にセメントの需要の増加と、栃木県産出の大谷石の人気と共に房州石は下火になり、1982年を最後に採石が中止されました。
初めて行った山ですが、いろいろ調べていくうちに、車力道を登るしかないと思えたのでした。その期待にこたえてくれた、摩耗した金谷石の石畳。有り難いものを見させていただきました!
わずか300mクラスの山、それでも登るにつれ雄大な東京湾が見渡せました。
主稜線に近づくと、石切り場跡が露わになってきます。
主稜線手前の急登の階段のネーミングが絶妙でした。「絶壁階段」!手すりがなかったら登るのは難しいでしょう。すっごい急です。
主稜線にあがって、東の山頂を目指します。鋸山の名のごとくギザギザのアップダウンです。
鋸山山頂の三角点柱石。一等三角点というのが共感できる歴史を持った山頂でした。関係ないかな?
すごく風の強い日で、お昼はツエルトの中でした。これはこれで有難いツエルトです。
房総半島からの富士山。
どこがメインという事はないのですが、本当にすごい石切り場跡でした。壁の途中が奥まって切り出されているのは、良質の石材を採るためです。基本柔らかい石材なので、荒いのと緻密なのといろいろあるみたいです。荒い材は値段が安かったという事でしょう。少しでも緻密な方が値段が良いのでこんな採取跡のなったのだと思います。
東側にある日本寺の敷地に入るためです。
ラピュタの壁、よく観察していたらハーケンを見つけました。下から上に向かってず~っと撃ち込まれていました。クライミングルートだったのでしょう。あまりに脆いので今は登られていません。
刃づるというハンマーのようなもので切り出します。コツコツ叩きながら石材を切り出していたのだと思います。この模様のような打痕が垂直の壁全体に着いています。
太平洋戦争の戦死病没殉難者供養と、交通犠牲者供養のために約6年の歳月をかけて彫刻されました。昭和35年からの6年間です。
僕らは被害に会いませんでしたが、むやみに野生動物にエサはあげない事です。
山の上から見ていてもわかった白波。風の強い日でした。たくさんの船が行きかう東京湾。
有名な地獄のぞき。
夕暮れが迫るまで鋸山を堪能しました。もう一度地獄のぞきを下から見上げます。
下山は関東ふれあいの道を取りましたが、ここも石材運搬の車力道でした。
最後の階段はいただけませんでした。
東京湾の夕日。遠くの山は伊豆半島の天城山です。海岸近くの民宿に泊まって、翌日も房総半島の山を堪能しました。
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