笹山(黒河内岳くろこうちだけ)は山梨百名山のひとつです。山梨百名山は~山梨県民に親しまれている、知名度がある、歴史・民俗との関わりがある~という基準で選出された山梨県内の100座の山々です。1997年(平成9年)に選定されました。もう20年経ちます。北岳、間ノ岳、農鳥岳、広河内岳、笹山、転付峠でんつくとうげ、這松尾、笊ヶ岳と続く白根南嶺と呼ばれる長大な尾根は山梨と静岡の県境の尾根です。笹山はその尾根のいちピークです。南北に長い尾根ですが東西には短い枝尾根がたくさん存在します。東側は富士川の支流の早川に下り、西側は大井川東俣に下る尾根です。
2008年早川町から依頼された山梨県山岳連盟の有志の方々が、笹山山頂から奈良田湖に落ちる尾根を調査ならびに整備しました。それ以来ダイレクト尾根と呼ばれるようになり笹山ねらいの登山者が登るルートとして定着しました。標高差約1900mの尾根です。
写真は笹山の北、農鳥岳の大唐松尾根から見た笹山と笊ヶ岳です。
自然、歴史、民俗、いろんな面から山登りをとらえるというのが登山文化だと思います。単に山頂だけをとらえるピークハントだけでは重厚な山の世界をとらえることは出来ないと思っています。膨大な山岳書が存在する理由だと思います。
昭和8年発行 平賀文男著「赤石渓谷」。山梨県立図書館にオリジナルがあるということで出かけましたが、よほど状態が悪かったのか残念なことにオリジナルの装丁は見ることが出来ませんでした。平賀文男は韮崎市(穂坂村)出身、1895(明治28)年1月20日生まれ~1964(昭和39)年4月19日没の、大正から昭和のはじめに活躍した登山家です。
「赤石渓谷」は南アルプス山脈から流れ出す17本の川をテーマにした山岳紀行文を集めた本です。南アルプスというエリアをほぼカバーしています。山梨、静岡、長野という発想はなく、純粋に山だけを見ての17本の川です。その中の「早川」という項目に注目です。その笹山ダイレクト尾根が登場します。昭和3年~8年の間の記録ではないかと言われています。
平賀文男の紀行文は、登山を目的にした南アルプスを初めて世に紹介したものとして認識されていますが、内容は入下山の詳細は省かれていて、印象的な(本人にとって)部分しか書かれていないことが少なくなく判然としないものが多いです。
僕の手元にあるのは、昭和41年発行の「日本山岳名著全集10」に収録されている赤石渓谷です。日本山岳名著全集全12巻はウェストンや小島烏水、加藤文太郎の単独行、松涛明の風雪のビバークなど多くの人たちに影響を与えた山岳書、紀行文、記録集などをまとめている全集です。そんな全集に収録されているだけでも、日本の登山文化の中で価値ある一冊だと認められている「赤石渓谷」です。
ちょっと長くなるかもしれませんが赤石渓谷の中の早川という項目の紀行文と、今の尾根の様子を照らし合わせて書いていこうと思います。非常に長いので抜粋です。
西山登山口の根拠地、この温泉宿(西山温泉)を尋ねたのは、単独登山として残雪の黒河内岳(笹山)に向かうためである。それは五月の下旬の一日であった。午前四時には、この深い渓底の湯場も、もうすっかり明るくなっていた。四時半に温泉宿を出て、奈良田に向かう。今や新緑の色あでやかな早川の渓である。…一時間弱にして、奈良田の里落へ着く。
奈良田湖が出来る西山ダムが出来たのが昭和32年なので、平賀文男が歩いた時はダムはありませんでした。現在の吊橋と当時の吊橋が同じ場所だったかどうかはわかりませんが、つり橋を設置するという労力を考えると同じ場所だったと思います。
奈良田の村家から、早川の岸へ細い道を下るとつり橋があった。右岸へ渡れば塩島平の耕地である。… 塩島平から、白河内の渓流を渡り、白河内と黒河内のさしはさむ山稜、笹山尾根にとりついて、記された小道の急な登りを始める。
現在のダイレクト尾根をはっきり笹山尾根と表現しています。白河内と黒河内の間の尾根といっていることからです。そう言える対象の尾根は一本しかありません。
急な杉の植林地を経て、青々とした濶葉樹の中をよじ登れば、六時十分、山ノ神平という所へ出る。五葉松、サワラ、ブナ、ツガの大木がはえて、樹下の小祠には山神の像が祭られてあった。
現在も平賀文男の文章そのままの山ノ神です。
標高約1750mの尾根が右に曲がる地点までの様子です。写真の先を登り切ったところで右折です。どうもそのあたりのことを書いた内容に思えます。以下です。今の水場の看板があるちょっと上の所です。
左手の急斜面に焼畑があって、この辺りから眺望はようやく開け、北に森山(1467.8m)…慈悲心鳥(カッコウのことだそうです。) の声も聞こえる。森山(1467.8m)よりもう少し高所まで登ったらしい。路傍にアセビがはえている。六時四十分。…右手にザル山(1792m)の山稜を眺め、脚下に白河内の深い渓澗に走る白い流れをのぞく。
七時十分、落葉松の林の辺で、左手に黒河内北又沢へ入って、白剥山(2237.2m、現在は2237.7m)方面へ通ずる道が分かれている。右にとってそのままなお山稜を登って行けば、ミズナラやヤマハンノキの林の中にシイタケを栽培しているところがあった。
この細くなった山稜の端に、一坪くらいの簡単な仮小屋があった。笹山(1920m)のうちのタルキトリ場という。水はない。渓流の音が聞こえる。ソウシカンバのこずえが少し芽ぐむ。八時四十分あたりは清浄な天地そのもののようである。また小平となり、伐採跡があってますます眺望がよく、右手の間近にガレが見えていた。富士山が高く、蕨平(1817.4m、早川の対岸の三角点、西山温泉に行く湯道の最高点、現在は1818m)の上にかかり、白峰南半の笊ヶ岳の双頭、残雪と針葉樹でゴマ塩色の生木割等が、八万平(でんつくとうげの北のなだらかなピーク)の上にちょっと現れる。九時二十分、小屋跡に着く。その北に丸太をくり抜いた水槽があって、水がたまっていた。
今の笹山の山頂は早川の支流の黒河内という沢の源頭ということで黒河内岳、という表現です。ここの記述の笹山(1920m)というのがよく分かりません。そこがタルキトリ場と言っています。タルキは屋根の下地にする板のことだと思います。この笹山尾根は200~300mごとに平らなところが出てくるので、どの場所がどこだという特定が難しいです。
筒鳥(ツツドリ)の声がする。気温̪C二十度、残雪があった。高距は2100mくらいらしい。四十分休む。十時にここを後にさらに登り続ける。
現在の地形図の2256m標高点の下のガレの縁です。当時は尾根全体が伐採によって展望が利く尾根だったようです。どの山が見えるという記述がたくさん出てきます。今はこのガレの縁くらいしか展望はありません。次に登場する約2300mの平は特定できます。どこよりも平らだからです。
右手ザル山(1792m、現在は1790m)の背へ、地蔵観音、薬師、辻山などを望見してシラビソ、コメツガの中を登る。新しい簡単な山小屋の三階建ての所へ出た。シャクシの小屋という畳の椽板(えんいた)の製作所だ。今までの明らかな山道は消えてあたりはまだ白く一面に残雪が敷かれている。山人らは六月にもならねば山住まいは始めないらしい。
ザル山というのは、北の尾根の顕著なピークだと思います。名前の通りの形なので。下の写真の、笹山に一泊で登る場合、多くの人がテント場として使っている平坦地にはシャクシの小屋という三階建ての山小屋があったと書いています。簡単な作りで三階建てってどんなだったんでしょう?
シラベ、コメツガの針葉樹林中に、くまなく残る雪を踏んで、小屋(約2300mのシラベの小屋)の背後を登って行くと十時半、山稜の白河内に面したガレの端に出た。それから割合に歩きよい雪の山稜を登って行けば、小平があり、あるいは急傾斜があり、シャクナゲが現れ、シラビソも短小となってきて、かくして、木立はなくなり、這松が見えてくると、まもなく、黒河内岳の山頂(2717.6m、現在は2718.1m)へ着く。十二時十分。東斜面は雪に埋められていたが、頂上は消え失せて露出した石原となっていた。
午後一時十分、黒河内の峰頭になごりをとめて、下山せんとすれば、東面に高く気高い富士の姿が浮かんでいた。…踏む雪は固く締まっていて落ち込まないから、たいへん歩きやすく、下りは速い。三十五分で、もうシャクシの小屋の辺に出た。
小屋と小屋の間に板で作られた水槽へ、屋根の雨どいの水がたまっている。間もなく雪は消えているので現れた小道をたどる。但し下降には、ゆきを踏む方がはるかに歩きやすい。笹山の笹の斜面を下り、再びウグイスの歌に耳を傾けながらカラマツの林、ミズナラの林を過ぎ、黒河内北又沢の道と合する山稜の小平地へ着く。三時十五分。
白河内岳を再参、ほれぼれとかえり見つつ濶葉の若葉に包む急な山路を下りに下って、山すそに着き、白河内の流れを渡り、早川のつり橋を経て奈良田に着いたのは、四時少し前であった。
紫の字が「赤石渓谷」に書かれた平賀文男の文章です。登りが6時間ちょっとで、下りが3時間弱で行動しています。こんなに詳細に昭和八年に出版された本に書かれている笹山尾根です。この検証は、この頃の(昭和の初めのころ)日本の山は人々の暮らしの延長に存在していたということのひとつの証だと思うんです。いくつも山小屋が登場するし、それは山仕事の延長の物です。その事実を無視して現在の山登りがあるということはあり得ません。
下の写真は、1929年(昭和4年)発行の「日本南アルプス」平賀文男著の付録の地図です。
凡例から、奈良田から黒河内岳(笹山)への道は登山路となっています。難路を示す破線ではないので、歩きやすい登山道だったのでしょう。
この尾根を笹山尾根と呼ぶことをお勧めします。歴史の上に立った名称ですから。平賀文男もそう呼んでいます。先人の業績を重んじて歴史をバトンタッチしていくというのが正しいスタンスだと思います。
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